日本にあきらめの空気が漂っていた戦後間もない時代、大阪の町工場から世界を変えようとした男がいた! 現代にも通じるリーダーの条件とは何か? 男のDNAを受け継ぐトップと、男に魅せられた企業小説の第一人者・高杉良が語り明かした。

「鉛筆の先を手前に向けて置きなさい」

【高杉】八谷(やたがい)泰造さんとの出会いは、僕がまだ20代半ばで化学業界の専門紙の駆け出し記者をしていたころです。当時は日本触媒化学工業(現・日本触媒)といっていましたが、取材先の社長でした。年齢の差を超えて、友達のようなつき合いをしていただきました。それだけに、八谷さんほど思い出深く、愛着心と尊敬の念を感じる経営者はいません。

いつか、八谷さんを主人公にした物語を書こうというある種の使命感がありました。けれども、あまりにも自分にとって近しい存在だったためでしょう、なかなか書き出せなかった。小説誌に『炎の経営者』を書きはじめたのは、亡くなって17年ほど経ってからです。それが今回テレビドラマ化される。感慨無量ですね。

【池田】八谷さんが亡くなられたのは1970年。私が日本触媒に入ったのが76年ですから、残念ながら直接には存じ上げません。とはいえ、入社当時はまだ社内には八谷信奉者ともいうべき上司がいました。新入社員研修のときに、いろいろ仕事の仕方を教わりました。例えば、鉛筆を机に置く際に「鉛筆の先を手前に向けて置きなさい。そうすれば、次に手に持ったときすぐに書きはじめられるでしょう」といった具合です。八谷さんは、そんなところまで厳しく指導されていたのです。

【高杉】享年が63でしょう……。若いなあと思います。しかしながら、今回、テレビドラマ化されるのを機に、作品を読み返してみたのですが、完全燃焼されています。戦後の化学業界の発展に寄与する会社を創業し、自社技術にこだわり、人を育てて、炎が燃え尽きるように世を去って逝った。

実は79年に『あざやかな退任』という作品を書いたのですが、その冒頭シーンに八谷さんの臨終の場面を使わせてもらいました。それを読んでくれた智子夫人が「主人が亡くなったときとそっくりです」といってくれたのです。それが、実名小説執筆の突破口になりました。

【池田】私は大阪出身で、本籍が旧日本触媒化学工業の本社の近く、中央区高麗橋3丁目です。実家は繊維関係の商売をしていたのですが、私が入社する際に父親が調べてくれ「あっ、八谷さんの会社らしいで」と。関西では違う業界の人間でも知っているほど有名な人物だったわけですね。

【高杉】池田さんは東大工学部出身ですが、八谷さんは大阪高等工業学校を出て、いったんは就職し、苦学しながら大阪帝国大学工学部を1932年に卒業しています。やがて、硫酸製造の会社を起こし、事業を続けながら博士号を取得した。池田さんは同じ理系出身の技術屋経営者として八谷さんに惹かれたのですか?

【池田】いえいえ、私は75年に卒業しているのですが、実家を継ぐにしても、もう少し勉強だと思い、1年間ほど研究生として大学に残りました。ところが、73年の第1次オイルショックで、それまで好況だった化学会社が軒並み苦戦を強いられ、大手はほとんどが新卒採用をしません。そんなとき、担当の教授から3年上の先輩がお世話になっている当社を勧められたのです。吹田にあった工場まで見にいき、入社を決めました。それから40年、ずっと世話になっているわけですが、それはやはり、自由に発言でき、チャレンジ精神に富んだ雰囲気が自分に合ったからでしょう(笑)。もちろん、それは八谷さんが培った社風にほかなりません。

【高杉】だからこそ、八谷さんのもとには優秀な人材が集まった。戦後間もなく、まだ無名の貧乏会社にもかかわらず、旧南満州鉄道の中央試験所にいた技術者を4人採用しています。彼らが中心になって、会社の技術力を高めていきました。当時、満鉄といえば押しも押されもせぬ会社です。そこから、後の日本触媒の屋台骨を支えるエリートを引き抜いた。よくぞ日本触媒化学工業に来たという感じです。

なぜ最も重要なのは「従業員」なのか

【池田】とにかく八谷さんは、人を大事にされていたと伺っています。私も常々、数あるステークホルダーのなかで、最も重要なのは従業員だと折に触れて語ってきました。従業員が一生懸命に働けば企業も利益を生み、製品や税金、配当などで社会に貢献できる。それは八谷さんの創業の精神でもあるわけです。

【高杉】その通りです。僕が経営者としての八谷さんに一番魅力を感じる点は、なんといっても社員を大切にしていたことです。智子夫人から記念にいただいた八谷さんの日記に苦学生時代の記述があります。几帳面な字で「自分は1円50銭の給料をもらっているのに、工場で汗を流している工員さんが、わずか1円なのはおかしい」と書いてあるのですよ。日記ですから本音でしょう。この気遣いはすごい。しかも、人を育てるパワーも持っていた。

いま、こうした考え方をできる人がどれだけいるか……。そんな資質を持つ人こそ真のリーダーです。いま、政治や経済にとどまらず、さまざまな面で日本が弱ってきていることは間違いありません。戦後間もない時代もそうだったかもしれません。そんななかで八谷さんは、化学技術を通して、日本に漂うあきらめの空気に一石を投じようとしたのでしょう。そして、そこにはいつも勁(つよ)さと優しさがあふれていました。いまこそ、そんな人物が必要なのです。

その意味でも、ドラマは1人でも多くの人に観てもらいたいと念願しています。実は、この『炎の経営者』のドラマ化を切望したのは僕のほうでした。現在のように閉塞感が漂う時代だからこそ、勇気が出る物語を世に問いたいと考えたのです。

実現できれば、間違いなく視聴者にアピールできると確信していましたが、放映に漕ぎつけられたのは、日本触媒さんの全面的な協力のおかげです。池田さんも試写会をご覧になられたと思いますが、どのシーンが印象に残っていますか?

【池田】やはり車中直訴ですね。小説もそうですが、あのシーンが好きです。八谷さんが博多行き急行列車「筑紫」に乗り込んで、東京から来た富士製鉄(現・新日鉄住金)の永野重雄社長をつかまえ、出資を依頼する。もはや、ナリフリかまわない突撃です。ここが一番ハッとして、私の心を掴んで離しません。

【高杉】50年、八谷さんが44歳のときのことです。伊原剛志さんが演じる八谷さんが、永野社長に飲ませるほうじ茶を入れた魔法瓶を肩からタスキ掛けにして下げています。ですが、これは主人公の必死さを示すための演出にほかなりません。実際の八谷さんは非常にお洒落でした(笑)。

資金がないからこそ、財閥系企業に勝てた

【池田】私は、入社時に「自分は新しいものを発明できる力はありません」とはっきり告げ、ずっと経営企画畑を歩いてきました。大学でちょっと化学をかじったからといって、会社に入ってすぐに独創的な発明ができるとは思わなかったからです。幸い私は、81年から2年間、アメリカのコーネル大学に留学させてもらいMBAも取得しました。会計学、統計学などを学び、後に当社初の海外拠点が米国にでき、現場の責任者を任されました。そこでは交渉術を学びました。こちらが譲れないぎりぎりの線をしっかり頭に入れて交渉を始めたら、のめるところはのむ。引いていると見せつつ、ぎりぎりの線は死守しました。そうした経験を通して八谷さんの突破力の強さを実感しました。

【高杉】僕は『炎の経営者』のための取材を申し込んで、永野さんを日本商工会議所に訪ねています。そのときのセリフがよかった。「そうか。八谷君のことを書いてくれるのか。うれしいなあ」と。それから約3時間、八谷さんとの思い出を話してくれました。その印象が車中直訴の場面になっています。

【池田】技術力に自信があったからでしょうね。このときに出資を引き出せたことが、59年の川崎のコンビナートへの進出に伴う川崎工場の開設につながっていくわけです。いま、現地に行ってもわかりますが、8000坪の敷地を鉄道輸送のための引き込み線が分断している。建設そのものもむずかしかったはずです。土地の払い下げに関して、川崎市と繰り返し折衝したところもドラマに描かれています。まだ、日本触媒化学工業は関東では無名でしたからね……。加えて、大手メーカーに伍して自社技術で乗り切ろうとした。そのころは、三菱油化(現・三菱化学)、三井石油化学(現・三井化学)といった財閥系の会社ですら、ほとんどが技術導入。そんななかにあって、当社は原料を買う資金がないから必死に取り組みました。前出の満鉄出身の役員がそういっていたことを覚えています。

【高杉】それはね、日本の化学工業史、いや産業史に残る快挙です。八谷さんは、大変なリスクを取り、乾坤一擲の勝負をかけたわけでしょう。無水フタル酸の製造、合成繊維の原料であるエチレンオキサイド、エチレングリコールの開発などを、すべて自社で成功させたのですからね。

【池田】化学はすべての産業の源を生み出すと、私は信じています。それほどに裾野が広く、どんなものにも化けることができる。つまり、化学会社はこれからも世界で戦っていけると考えています。そのためにも従業員が誇りを持てる会社をめざします。かつては日本を代表する企業として輝いていたにもかかわらず、不祥事を起こす大企業さえあります。そんな世の中でも、勤務先を尋ねられたとき「私は日本触媒に勤めています」と胸を張っていえる会社にしたい。OBや会社の伝統に対しての責任もありますからね。

【高杉】なるほど、そうした考え方に八谷さんのDNAが脈々と息づいていることを感じます。八谷さんが亡くなってから、もう50年近くになります。いまや八谷さんの謦咳に接していない世代が大半のはずです。カリスマ的で強いリーダーシップを持っていた創業者が亡くなると、企業は苦境に立たされることも少なくありません。事実、八谷さんの訃報が流れたとき、僕の周りにも「もう、日本触媒はダメなのではないか」と噂をする人たちもいました。しかし、それは杞憂でしたね。

【池田】もちろん、業績に波がなかったわけではないのです。けれども、事業を引き継いでいく歴代トップが正しい決断をしてきました。その結果、現在では紙おむつなどに使われる高吸収性樹脂の分野で世界シェア1位を維持しています。とはいえ、次の事業の柱となると、電子情報機器材料や医療検査機器の素材などがありますが稼ぎになるのはしばらく先です。

だから、経営判断が重要になってきます。私は社長として「物事は損得ではなく、善悪で判断し、行動するべき」を座右の銘にしてきました。儲かることであっても、善悪の判断に照らして、悪になるならすべきではない。善悪で判断することが遠回りに見えても、長い目で見れば利益につながるはず。それも八谷さんの経営哲学に通じるものだと思っています。

日本触媒社長 池田全徳
1953年、大阪府生まれ。75年東大工学部卒、76年日本触媒化学工業(現・日本触媒)入社。83年コーネル大学経営学修士課程修了。98年海外事業部長、2003年取締役などを経て、11年から現職。
作家 高杉 良
1939年、東京都生まれ。専門紙記者、編集長を経て、75年『虚構の城』で作家デビュー。以来、経済界を舞台にしたリアリティ溢れる話題作を次々と発表。『金融腐蝕列島』など著書は70作を超える