今後、孤独死が日常化していくのは間違いない。先祖代々の墓の継承も極めて難しい。現代の死と葬儀、埋葬の実態とは――。

4階の遺体が発する異臭が1階まで臭う

死後のことに頓着しない人はあんがい多い。おれが死んでも何もしなくていい、ひとりで勝手にあの世に行くから構ってくれるな、などとうそぶいたりする。しかし「ひとりで勝手に」死ぬことなどだれにもできない。本人はすっきり旅立ったつもりでも、あとにはしっかり死骸が残る。

すぐにだれかが見つけてくれればいいが、何日も放っておかれたらそのうちとんでもない異臭を放ち始める。そこが賃貸住宅であれば、大家は思い切り頭を抱えるだろう。場合によっては100万円単位の代金を払ってその道のプロに掃除を頼まないと、もはや店子を入れることはかなわない。

本書でまず刮目したのが、その「特殊清掃」のくだりだった。「孤独死の現場は4階なのに、1階からエレベーターに乗った時点で今まで嗅いだことのない異臭を感じた」り、「床下の土にも体液が染み、土からどんどん新しいウジが生まれてハエになって、を繰り返していた」りする。そこに3分もいれば皮膚にも髪の毛にも臭いが染みつき、一度染みついたら容易にはとれない……。つまるところ人は、生きるためにはもちろん、死ぬときにもだれかの世話にならざるをえないのである。

65歳以上の高齢者がいる世帯が全体の4割を超え、その半数以上を単身世帯、または夫婦のみの世帯が占める今だけに、孤独死が今後日常化していくのは間違いない。せめて遺体が異臭を発する前に発見してもらえるように、せいぜい人付き合いをしておくべきか。

先祖代々の墓を守り続ける時代は終わった

著者は丹念な取材でこうした現代の死と葬儀、埋葬の実相を浮き彫りにする。

まず、先祖代々の墓の継承がもはや極めて難しい時代であること。都市に住みながら地方の墓を守り続ける余裕がないため、「墓じまい」に踏み切るケースが急増している。目下、都心で永代供養をうたう巨大納骨施設が相次いで建設されているのは、彼らの改葬ニーズを受けてのことにほかならない。

一方で加速しているのが、葬儀の簡便化だ。家族葬はもちろん、告別式をせず火葬だけで済ませる「直葬」や散骨を選ぶ人も増えている。宅配便で遺骨を送ると供養してもらえる「送骨」、僧侶の読経が買えるチケット制のサービスなどが支持を集めていたりもする。どこか不埒にも思えるそれら新ビジネスが登場した背景には、遺骨をトイレに捨てる者、骨壺を電車の網棚に置き逃げする者すら少なくない現実がある。

人の死をめぐる伝統的な営みがかく変質を遂げた要因を、著者は「イエ」と「ムラ」の解体に見る。長らく地域の菩提寺と結びついていた人々は、ここにきて急速にその「寺檀関係」から脱している。おかげで葬儀も埋葬も好きにできる(あるいはしない)自由を手にしたが、同時にわずらわしくも頼りになる地域の紐帯を失い、この世とあの世にまたがる孤独と対峙することにもなった。じっさい、将来自分が入るべき墓がないことから、死後へのよるべない気持ちを膨らませている人は多い。

結局のところ問題は、自由と引き替えに人と人との「縁」が希薄化したことにある。そんな著者の思いを映すのが、「縁を紡ぐ人々」と題した第三章だ。ホームレスやいまだ虐げられる在日朝鮮人の支援、地域の人間関係を励ますイベントなど、僧侶をはじめとした篤志家が主導する取り組みにスポットを当てる。取材の過程で彼らの活動に参加した著者の「死の現場だけではなく生に寄り添うのも、現代の僧侶のあり方だと知った」との言葉は、宗教関係者の耳に重く響くことだろう。

ちなみに出版社で記者として活躍する著者自身、京都・嵯峨野の正覚寺副住職を務める浄土宗僧侶。前著『寺院消滅』もあわせて読みたい。