機長の責任の重さを思い知った3年間 

飛行機の操縦席に座っていると、驚くほどたくさんの星が前面に見えることがあります。昔、小学校の授業で習った天の川が、本当に教科書通りに目の前に広がっていて、そこを流れ星が何度も流れていくんです。

夕日や晴れた日の富士山、少し天気が悪い日に空港へ近づいたとき、パッと浮き上がるように見える滑走路のライトの美しさ。それらは私にとって、この仕事をしていなければ知ることのできなかったものです。

でも、そんなふうに風景を楽しめるのは、フライトが安定していて心にゆとりがあるときだけです。

機長という仕事はそのフライトの最終責任を負うのですが、1つのフライトには数えきれないほど多くのスタッフがかかわっています。フライトに関するすべての決定権が機長にあるので、悪天候時の欠航の決断から機材の故障、燃料をセーブできる効率的な高度といった大きな方針から、フライト中の細々としたことまで「どうしますか」と聞かれる。

副操縦士やキャビンアテンダント、また、整備士、運航の支援をする航務といった地上スタッフなど多くの人たちと情報を共有し、そして連携を取りながら機長として一つひとつのフライトを作り上げていきます。私は機長になってから、副操縦士時代の自分が「最後は機長が決めてくれる」と、気持ちのどこかで安心していたことを思い知りました。その意味でこの役職について4年目を迎えたいま、良いフライトをしっかりと作り上げることができたときが、私にとって1番の醍醐味を感じる瞬間です。

乗り物大好き少女

私がパイロットという仕事を志したのは、高校時代に進路を決めるときでした。

実は小さい頃から乗り物に興味があって、父親が作ったプラモデルで遊ぶのが好きだったんです。新幹線に乗るのも好きだったし、夜の道路を走っている黄色い清掃車みたいな「働く車」を見るのも好き。

中でも、2歳半のころに飛行機に初めて乗った際に見た、窓の下にモコモコとした雲が広がっているあの光景は、忘れられないものでした。だから中学時代には友達を誘って、実家のある八王子から横田基地の基地祭に遊びに行ったりしていたんですよ。

本を買って調べてみると、日本でパイロットになるためには3つの方法があることがわかりました。1つは航空大学校を卒業すること、次に航空会社の自社養成、最後に自衛隊に入隊することです。

日本でダメなら海外に行けばいい

そこでそれぞれの場所に問い合わせたのですが、航空大学校は入学規定にある身長に8cm足らず、航空会社と自衛隊は「女性の採用は行っていない」と断られてしまいました。

「女だからダメだ」と言われてしまえば、どうしようもありません。

ただ、日本は女性の社会進出が遅れている国だというイメージがあったので、なんとなくそういうことになるんじゃないか、という気持ちは最初からありました。なので、日本でパイロットになれないなら、いずれ外国に行こうと割とすんなりと思いきることができたんです。

それにはまず飛行機の操縦を経験してみないことには始まらないですから、日本の大学に進学した後、就職活動で必要となるライセンスを取得するためにアメリカに行くことにしたんです。

藤 明里(ふじ・あり)
1968年、東京都出身。国内の大学を卒業後、アメリカで操縦免許を取得。派遣社員として働きながら資金を貯め、採用の機会を待った。1999年、JALエクスプレス入社、2000年より副操縦士として活躍。10年、日本で初めての旅客機の女性機長となる。