今の仕事は「3つ目の部屋」

変なたとえですが、私の行動パターンは、流行りの「お掃除ロボット」ではないか、と思っています。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりながら、「経験」という名のチリ(貶めていうわけではありません!)を思いっきり吸い込み、“部屋”がきれいになったら(=目標を達成したら)、今度は別の“部屋”を見つけ、移動していく。そんなイメージです。

そうだとすると、社会人になってからのキャリアでいえば、今までに2つの部屋をきれいにし、今私がいるのは3つ目の部屋ということになります。

1つ目の部屋は慶應義塾大学院医学研究科、研究者としての部屋でした。そこで私は網膜の病気の原因となる遺伝子を見つける研究に没頭しました。幸い、研究を着手して5年という時に、緑内症を引き起こす原因遺伝子のひとつ、ミオシリンを発見することができました。

その過程で、眼の神経、すなわち網膜から抽出した遺伝子を他の組織の遺伝子にかけあわせ、網膜のみに発現する遺伝子を見つけるという単純作業をひたすら繰り返しました。当時、人間の遺伝子は10万個と言われていましたから、気の遠くなるような作業です。でも私はめげませんでした。世界中の眼科の研究室が大きなチームを組んで大量の資金と人を投じ、同じような研究に取り組んでいました。その方法が大型ジェット機で移動するようなものだとしたら、私のやり方は自分の足だけを頼りにトボトボ歩いていくようなもの。でも、やり方さえ正しければジェット機に負けない自信がありました。まさに壁にぶつかりまくる日々でしたが、労苦は報われました。結果的には紙一重のきわどいレースではありましたが。

私の信条は、とやかく言わずに、まずやってみる。“Just Do It!”という言葉が大好きです。画期的なことを成し遂げると「コロンブスの卵だ」と言われたり、ときには「そんなことはわかっていた」などと言われたりもしますが、要はやるか、やらぬかであり、結局はやったもの勝ちということではないでしょうか。「コロンブスの卵」は結構転がっているものだと思います。

60分かかったオペ時間が10分に

2つ目の部屋は、眼科医としての部屋です。なぜ研究者の部屋を離れたかといいますと、ミオシリンの発見により研究者としての達成感は得られたものの、このまま研究を継続しても、私が生きているうちに失明の危機にさらされている患者さんを救うことはできないだろうと思ったからです。既に医師免許はもっていたので、本当に困っている患者をこの手で救うべきではないか、と。

そのためには手術の「数」が重要です。数多くの手術をこなせる病院として、教授から勧められたのが虎の門病院でした。ここで3年間働きましたが、その間、執刀医や助手として経験した手術は1000件にのぼり、手術の腕はみるみるうちに上達しました(研究を中心にやっていたので、スタートラインが低かったということもありますが)。

といっても、最初からうまくできたわけではありません。手作業が遅く、通常はせいぜい15分で終わる手術が1時間もかかっていました。これではいけないと奮起し、ひたすら練習に励みました。自分が担当した手術をしっかり振り返って記録にしたり、その様子を撮影したビデオを見返したりしただけではなく、豚の目を使って切開や縫合を繰り返しました。その結果、手先がどんどん器用になり、2年も経つと、どんなに丁寧に手術をしても10分あれば完成できるようになっていたのです。

私は究極のポジティブ・シンキング人間で、「努力は人を裏切らない」」「苦労が人を育てる」と思っています。もちろん、努力や苦労の結果がゼロどころか、マイナスとなることが明確な場合はまた別ですが、そうではなくて、何かが得られる可能性があるのだったら、喜んで苦労をしたい。苦労してもやり遂げたいと思う対象が見つかったこと自体、神様に感謝すべき幸せなことだと思います。

1兆円も夢ではない画期的新薬

さて、今私は、アメリカのシアトルに本社があるアキュセラというバイオベンチャーの経営者をつとめています。3つ目の部屋にいるわけです。

なぜ2つ目の部屋を離れたかというと、最後は失明にまで至ってしまう、治療法が発見されていない難病が存在するという現実を日々の臨床現場で目の当たりにし、人類の幸福のためにそうした病を根絶したい、と思い始めたからです。

その時はベンチャーを立ち上げようなどとは夢にも思わず、再生医療でそれを成し遂げたいと考え、関連する研究を行っていたアメリカのワシントン大学に博士研究員として赴任。そこで神経細胞を半永久的に生き永らえさせる技術を偶然見つけ、それをもとにベンチャーを立ち上げたのです。2002年4月のことでした。

それからも紆余曲折は絶えず、あちこちぶつかり、まさにお掃除ロボット状態が続きました。現在は加齢黄斑変性という、失明を引き起こす難病を治療する飲み薬の開発を進めています。新薬開発が成功する確率は3万分の1と言われ、針の穴にラクダを通すようなプロジェクトですが、もう候補となる化合物は見つけていますので、確率は2分の1のところまでこぎつけました。加齢黄斑変性治療に関わる医薬品の世界市場規模は3兆円に達する(※1)と見られており、再生医療も難しいため、幸い、私たちのプロジェクトには世界中から大きな関心が集まっています。

人の行く裏に道あり花の山

何より、飲み薬というアプローチが画期的、と評価されています。飲むだけですから、眼球内への注射を必要とする現在の治療薬と比較すると、患者の負担が非常に軽い。

私は、誰もやったことがないことに出合った瞬間、「これだ!」と思います。飲み薬で治すというアイデアを思いつき、他の誰もが成功していないことがわかった時、「自分がやるべきだ」と思いました。みんなが目指しているのとは別の方向へ行く。それが私のやり方です。競争相手はいないから成功の確率は上がりますし、仮にうまく行かなかったとしても、学ぶべきことが山ほどある。最初の目標には辿り着けなかったとしても、ある場所には辿り着くはずです。富士山には行けなかったけれど八ヶ岳に、エベレストは無理だったけれどK2には登頂できた。だったら、その景色を楽しめばいい。予定していなかった山の景色が想像をはるかに超えて美しいこともしばしばです。

山のような本や資料を集め、長い時間かけて読み込んでも、それは頭だけで理解したことに過ぎない。結局、自分で身体を動かし、経験として学んだことにはかないません。経験こそがその人の宝、なのです。いかに日々密度の濃い経験を積んでいくかが大切です。日々の成長は実感できなくても、こつこつ続けてしばらくたって振り返るとけっこうな成長が感じられることもあります。

研究者としての最初の部屋で10年、2番目の眼科医の部屋で10年、そして経営者としての今の部屋で11年になりますが、過去に研究者、眼科臨床医としてしかるべき業績を残しているという私の経験が、社外で出資をお願いしたり、社内で人をマネジメントしたりする時に大きな強みになっています。人生、やったことに無駄はないのです。現在目指している山はより困難なので少し時間がかかりそうですが、ネバーギブアップで登頂するまでやり続けたいと思います。

考えてみれば、子どもの頃から私は好奇心の強いお掃除ロボットだったのかもしれません。船乗りだった父親の仕事の関係で、10歳からアメリカで暮らしていたのですが、仲間づくりがしたくてはじめた新聞配達のアルバイトが面白くなり、将来はこれで身を立てたいと思ったことがありました。帰国後、役者になりたくてオーディションを受けたこともありますし、結局は肺に影があるという理由で落とされましたが、宇宙飛行士に応募したこともあります。

凡才が天才に勝つ方法

ただ、お掃除ロボットにはないけれど、私には備わっているものがひとつだけあります。「面白そうだから挑戦したい」という自らの「内なる声」です。私の行動がお掃除ロボット化したのも、それに従った結果なのでしょう。何事も誰かに押し付けられてやっているわけではないというのが重要で、だからこそ、いろいろな困難も乗り越えることができるのです。

自分で何事かを選択してみて、まずはやってみる。うまく行けばよしで、うまく行かなかったら、別の方法を考えて試して、うまく行くまで簡単には諦めない。天才ではない人間が、天才並みの業績を上げる方法はこれしかないでしょう。

私はごく普通の人間です。むしろ小学校時代は転校につぐ転校で、落ちこぼれに近い子どもでした。そういう人間でさえも、努力して認められれば、社会に貢献できる大きな事業を立ち上げられる時代です。私自身は今アメリカに住み、日本との間を頻繁に往復しています。私のように、日本という枠組みを超え、世界に、人類に貢献する仕事をしたい、と思う若い人が少しでも増えてほしいと願っています。

[参考資料]
※1:Nature Reviews Drug Discovery Volume 12 July 2013 p501-2