歩留まりが上がらず胃の痛い毎日が続く

発表会の成功によって、東レと松下の提携の道筋はついた。2001年6月には合弁会社・松下プラズマディスプレイ(現パナソニック  プラズマディスプレイ)が操業を開始する。しかし事業化を成し遂げても、それでほっと一息つくことはできなかったと出口は続ける。

「実際に工場を立ち上げてみたら、『歩留まり』がとても悪いんです。月産3万枚が目標でしたが、1日に400枚しか作れない日もありました」

感光性ペースト法の改善、材料の改良……。供給が安定してくるまで、彼は「胃の痛い毎日が続いた」と振り返る。

もう1つの壁となったのが40インチ台のフルハイビジョンテレビの製品化だった。

隔壁構造を電子顕微鏡で撮ったもの。この隔壁形成技術により、42インチのフルハイビジョンテレビが実現した。東レの技術を使った同社のPDPの世界シェア(2007年)は36.1%で首位(ディスプレイサーチ調べ)。

隔壁構造を電子顕微鏡で撮ったもの。この隔壁形成技術により、42インチのフルハイビジョンテレビが実現した。東レの技術を使った同社のPDPの世界シェア(2007年)は36.1%で首位(ディスプレイサーチ調べ)。

PDPは50インチ以上の大きさには力を発揮できても、40インチ台以下ではフルハイビジョンへの対応が難しいとされていた。従来よりも約3倍の画素数が必要となるためで、それを実現するにはミクロン単位で隔壁を小さくする必要がある。

試作品はすでにつくられていたが、完成度はまだまだ低かった。隔壁に付着する目に見えないゴミ、内部で発生する断線。それらが1つでもあれば光が通らなくなり、画面の一部が欠けてしまう。出口の率いる背面板開発グループは次々に現れる課題に対し、一つひとつ改善点を洗い出す日々を、その後の約6年にわたって続けることになるのだった。

そうして彼らが42インチフルハイビジョンテレビの製品化を達成した07年、最後発だった松下のPDP事業は、世界シェアトップの座につくまでに成長していた。液晶テレビの高性能化や低価格化、有機ELテレビの登場、事業から撤退する競合他社……周囲を取り巻く環境は目まぐるしく変化しているが、出口はいまようやく一つの達成感を抱いている。

「旅行をしたとき、空港や駅、ホテルに製品が置いてあるのを見ると、とても嬉しい気持ちになるんです」

例えばかつて開発に携わった高性能フィルムは、一般の消費者には馴染みが薄く、「その技術がどう使われているか、日常生活の中では自分でもわからない」ものだった。対してPDPはどうだろう。

「自分の子供にも『プラズマテレビをつくったんだ』と言えば伝わる。開発の成果が世の人たちの目に触れるんです」

研究所であの「熱気」に引き込まれてから、10年以上が経った。

そして、いま抱いているこの手触りのある誇り――それは彼にとって、これまで知っていたものとは少し違った“技術者としての喜び”でもあるのだった。(文中敬称略)

(増田安寿=撮影)