安倍には潰瘍性大腸炎という持病があるが、後に本人が「画期的な新薬」と説明する薬が10年4月に登場した。1年後の11年3月、東日本大震災が発生した。日銀による国債引き受けで20兆円規模の復興財源を、と唱える自民党の政策通の山本幸三(衆議院議員)は、派閥の違いを超えて、安倍に声をかけた。

「安倍さんが官房長官や首相の時代、反対したにもかかわらず、日銀が金融引き締めに動き、それが経済失速の原因になったと言っているという新聞のコラム記事を読んだ。それで『増税によらない復興財源を求める会』という議員連盟の会長を頼みにいった。『先を考えるなら、“経済の安倍”で。将来的には日銀法改正とインフレ目標政策を考えています』と話したら、『わかった』と言った」

この議連を母体に、12年1月、120人規模の超党派の「デフレ・円高解消を確実にする会」が誕生する。山本は毎月の勉強会の講師にリフレ派の論客の浜田宏一(現内閣官房参与。イエール大名誉教授)、岩田規久男(現日銀副総裁。元学習院大教授)、伊藤隆敏(現東大大学院教授。元大蔵省副財務官)、高橋洋一(現嘉悦大教授。元首相補佐官補)、中原伸之(元日銀政策委員会審議委員。元東亜燃料工業社長)らを招いた。安倍は強い関心を示し、熱心に参加した。

元大蔵官僚の高橋は第1次安倍内閣時代、経済政策面で「安倍の知恵袋」の役割を担った。小泉純一郎内閣の01年8月、経済財政相だった竹中平蔵(現慶大教授)から「手伝ってほしい」と言われ、補佐役を引き受けた。竹中は「小泉内閣の5年5カ月、毎週日曜日の夜、安倍さんも入れて数人でストラテジー・ミーティングをやった」と回想しているが、「当然、私も行ったことがあるから、安倍さんと知り合いに」と高橋は言う。

安倍が日銀に批判的となったのは、小泉内閣の官房長官だった06年3月、福井俊彦総裁の下で行われた量的金融緩和の解除がきっかけと言われている。高橋がその場面を振り返った。

「総務相だった竹中さんも私も猛反対した。解除すれば確実に景気が悪化するとわかった安倍さんは『どのくらいで悪くなるの』と聞くから、私は『1年か1年半くらい』と答えた。だが、担当の与謝野馨経済財政相が日銀の言うとおりになった。安倍さんは手も足も出なかった」