水泳で知った我慢 「五本柱」を構築

1948年2月、京都市の中心地で生まれる。2年半ほど前、京大生だった父が「学生ベンチャー」の堀場無線研究所を立ち上げた地だ。父は53年1月、近くに堀場製作所を設立する。小学校3年までは、職住合体の生活だった。

府立山城高校から甲南大学理学部へ進み、71年春に応用物理学科を卒業。堀場が米カリフォルニア州アーバインに設立してまもない合弁会社に入社し、11月に渡米する。日本から輸出されてくる製品の取り扱いやアフターケアの担当で、日本人で第1号。日本語の取扱説明書しか送られてこず、辞書を引いて翻訳しながらの仕事だった。まだ製品にも技術にも通じていないので、何度も「お客のためにも、本社で翻訳すべきだ」と文句を重ねたが、苦労のほどが理解してもらえない。

次に開発や設計の米子会社へ移ったが、物理の知識だけでは追いつかず、カリフォルニア大学アーバイン校の電子工学科3年に編入してもらい、大学院まで進む。このころ、生涯忘れられない体験をするが、その内容は次号で紹介する。大学院を修了後、米宇宙航空局(NASA)で働こうかと考えていたら、父に「あれだけ文句を言ったのだから、自分でやってみろ」と言われて帰国。海外の営業活動などを支援する海外技術部が新設され、部長となる。

部長と言っても、部下は課長と大学を出たばかりの女性の2人だけ。どちらも、英語が使えるという理由だけで選ばれていた。約150人の規模だった会社のなかでも、最も小さな部署。でも、英文の技術情報を海外に提供する仕事は、足音がし始めたグローバル化に本格的に対応するための「大きな一歩」だった。

92年1月に社長になったが、就任後の3年間は減収減益となる。事業領域が広がりすぎていたし、営業分野への「二重投資」もある。開発部隊が君臨する社内風土の欠陥も大きかった。でも、開発体制の改革も次回触れるが、国内営業のように10年まではかからず、97年3月期には増収増益を達成した。

その間、先々を見据えた戦略も、忘れない。96年にはフランスの血球計数装置メーカー、翌97年にはやはり仏の光学分析機器メーカーを買収した。いま、前者は医用分野を支え、後者は科学分野で貢献している。排ガス測定の自動車計測、福島原発事故で注目された線量計なども手がける環境・プロセス、半導体の製造過程を管理する分野とともに、「小利」にとらわれない戦略で、五本柱となっている。

安全と安心の確保、地球環境の保全、高齢化と長寿社会への対応、IT技術の応用、そして新しい領域での研究開発。時代の要請が最も強い世界と、五本柱のどれもがつながる。それは、偶然ではない。「大利之残」となる負の要素を、限りなく排除してきた結果だ。これも、水泳の試合以来、身に付いた我慢をし抜く力に、裏付けられている。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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