そして手帳は「学ぶべきもの」へ

このような飽和状態に向かうプロセスと並行して表われてくるもう一つの傾向が、手帳そのものについて学ぶ記事や、手帳の正しい選び方を指導するといった記事が登場すること、いわば学び習得されるべき対象としての「手帳学」の誕生です。

たとえば2009年特集では、TOPIC-1でも紹介した手帳評論家の舘神龍彦さんによる「今さら聞けない!? 手帳のイロハ」という記事が冒頭に置かれ、手帳の種類、用途、買い時、選ぶコツ、上手な書き方、ITツールとの使い分け、夢がかなうかという各質問へのコンパクトな回答が示されています。さらに特集中盤では、佐々木かをりさん、熊谷さん、糸井さんが登場する「手帳道場」という記事が設けられ、各「塾長」が手帳の使い方を読者に直接アドバイスしています。

舘神さんは、2010年特集では「手帳王子・舘神龍彦と行く『My手帳』を探す旅」、2011年特集では「“手帳王子”が特講!“My手帳”の探し方」という記事でそれぞれ、読者への手帳の選び方指南を行っています。ここで興味深いのは、自分自身のニーズ、つまり自分自身が手帳に何を求めているのかを自問自答して明らかにすることが手帳選びの第一歩だとされている点です。手帳を使う際だけでなく、選ぶ際にも、自分自身の価値観を明らかにすることが求められているわけです。もちろんこれは、手帳の選択肢が広がっているためであり、「手帳術」も多様になっているためなのですが、さまざまな手帳と「手帳術」があることを訴え続けてきたのも『アソシエ』自身であって、その意味ではマッチポンプ式に煽っているという感もします。

これは私自身の想像力が乏しいことに起因するのかもしれませんが、『アソシエ』の特集を順に眺めた限りでは、「手帳術」そのものが、行き着くところまで行き着いてしまったように思います。「手帳術」は際限なく広がり、手帳の選び方指南までなされるようになる。登場する人物も、糸井さん、熊谷さん、佐々木さんなど、顔ぶれが定まってしまったようにも思えます。

これは次なる変化が起こる前触れなのかもしれませんが、私には分かりません。しかしいずれにせよ、2000年代から今に至るまでの「手帳術」は、一つの流れのなかで行き着くところまで行き着いてしまった、いわばアイデアの飽和状態に達してしまったようにも思います。