(上)緊急手配したトラックにはリフトがないためローラーで運び出す。(中)荷運びのため階段にローラーを敷設。震災直後は「バケツリレー」だった。応援チームは2泊3日で店内に泊まった。(下)6月2日。店内を視察する桑原道夫社長と芝村浩三店長。桑原社長は1カ月半ぶりの来店だった。
(上)緊急手配したトラックにはリフトがないためローラーで運び出す。(中)荷運びのため階段にローラーを敷設。震災直後は「バケツリレー」だった。応援チームは2泊3日で店内に泊まった。(下)6月2日。店内を視察する桑原道夫社長と芝村浩三店長。桑原社長は1カ月半ぶりの来店だった。

芝村が仙台の自宅で「とてつもない揺れ」を経験した約40分後。東京本社の4階に対策本部が設置された。本部長は社長の桑原。実質的に指揮を執ったのが総務人事本部の野口敏光だ。

「ついにきたか」と野口は思った。「阪神・淡路大震災以降、災害時、いかに対策本部を立ち上げるか、訓練やシミュレーションを続けていました。非常時では、それぞれのポジションでそれぞれが役割を果たさなければならない。我々、小売業者の役割は、お客さまに商品をお届けすることなんです」。

収集した情報を一元化して、本部長である桑原の判断を仰ぐ――それが、対策本部での野口の役割だった。

ダイエーには、震度六弱以上の地震が発生した場合、休日夜間を問わずあらゆる手段を講じて本社に駆けつけ、対策本部を立ち上げる40人の対策本部要員がいる。1995年の阪神・淡路大震災を機にマニュアルにまとめていたのだ。対策本部立ち上げと同時に情報収集がはじまった。

東日本大震災。そう名付けられた通り、被災地域は広い。グループ会社を含めると、関東から北海道の函館までの320の店舗が震災の影響を受けた。客と従業員の人的な被害。建物の状況。営業が継続可能かどうか……。ひとつひとつ確認した。

「何かひとつでも通信手段が生きていれば」と野口は考えていた。「衛星電話を持っていたとしても充電が切れていれば使えないわけですから。なかでも、緊急連絡網として作っていた個人の携帯メールのリストが役立った」。

午後6時。すべての店舗で人的被害がないのは確認できた。

「仙台店でも従業員の安否は確認できたものの、自宅や家族が大きな被害にあっている人もいた。公共交通機関も動いていない。出社できないスタッフが増えるのは予想できた。緊急物資を届けるのと同時に仙台店へ派遣する応援部隊を組織したんです」