関東大震災のとき、総理大臣は交代中、内閣は不在だった!2011年3月11日、日本を襲った100年で3度目の大震災。先の震災に学ぶ東日本の復興復旧の術とは何か。

課題はトップリーダーとしての危機対応力、問題処理力、日本再生の政策構想力、そのための政権運営能力だ。

自信家の菅には「自分は仕事ができる男」という自負がある。問題処理能力は高く、むしろ「危機こそ腕の振るいどころ」という意識が強かったのではないか。他方、その点をアピールして人気浮揚と支持率回復につなげる思惑から、「自ら見せる」というパフォーマンス型を目指した面もあった。

<strong>寺田 学</strong>●1976年生まれ。商社勤務を経て、2003年より衆議院議員。前内閣総理大臣補佐官。補佐官退任後も、官邸へ日参している。
寺田 学●1976年生まれ。商社勤務を経て、2003年より衆議院議員。前内閣総理大臣補佐官。補佐官退任後も、官邸へ日参している。

翌12日の朝6時過ぎ、菅は陸上自衛隊のヘリで被災地と東京電力福島第一原発の視察に出かけた。15日の早朝には、福島原発事故対策統合本部を東京の東京電力本店内に設置し、午前5時40分に自ら乗り込んだ。危機発生直後に首相官邸を留守にして視察に出かけたり、自ら東電に出向く行為はパフォーマンスが過ぎるのでは、と批判が出た。首相補佐官だった側近の寺田学(衆議院議員)が打ち明ける。

「12日の視察はベントするしないというところから始まっています」

原発の原子炉内の圧力が異常に上昇して危険な状態になったとき、格納容器の弁を開放し、水蒸気を逃して圧力を下げる作業が必要となる。これをベントという。寺田が続ける。

「夜中の2時頃に東電側からベントすると経済産業相に話があったが、なかなか始まらない。推測すると、東電の本社側と現場で考え方にずれがあると思った。本社は保守的で、現場は現実的だった。視察は、まあ、早くベントしろと現場に……。総理が東電に乗り込んだのも、向こうが消極的になっていたのと、東電との話でレスポンスが早くなるので乗り込んだほうがいいという結論になった」

だが、実際に福島第一原発一号機でベントが始まったのは12日午前10時過ぎだった。午後3時半過ぎに原子炉建屋が水素爆発で吹き飛ぶ。大事故が現実となった。

大震災まで、菅は八方塞がりで政権維持に四苦八苦だった。間近で見ていた寺田が印象を語っている。

「ご本人は追い詰められた感覚は持っていなかったと思う。小沢さんが大きな影響力を持っているという感じもなかった。大震災が起こって、総理の頭の中では政権と地震は完全に分離していた。地震で政治情勢が好転したという認識はまったくないですね」

とはいえ、政権欲旺盛で、へこたれない性格の菅は、大震災発生で空気が一変したのを見て、政権継続に光が差し始めたと受け止めたのは間違いない。

昨年6月、宿願の首相の座を握り、参院選敗北後も政権維持の意志は揺るがなかった。9月の代表選で小沢を倒した後、政権継続には自民党との連携がベストの道と見定めた。

<strong>加藤紘一</strong>●1939年生まれ。自社さ政権下で発生した阪神大震災当時、自民党政調会長。衆議院議員。幹事長などを歴任。
加藤紘一●1939年生まれ。自社さ政権下で発生した阪神大震災当時、自民党政調会長。衆議院議員。幹事長などを歴任。

9月25日、国連総会出席のためにニューヨークに出かけたとき、自分で自民党の加藤紘一元幹事長の携帯電話に連絡を入れた。加藤は秋田から羽田空港に帰り着いたところだった。

加藤とは1980年代に超党派で訪米したとき以来の交流だが、97年秋の金融危機の際、民主党代表と自民党幹事長として対策を話し合ったあたりから関係が深くなった。一方、自民党の谷垣は加藤の元側近である。

「このままでは政治は動かなくなる。お互いに閣僚をシェアしながらやっていくことを考えなければ」

菅は電話で加藤に告げた。加藤は一応、谷垣に伝えた。だが、自民党も谷垣も対決路線を突っ走った。(文中敬称略)