なぜ「嘘つき」は侮辱にならないか

ソフトブレーン 
マネージメント・アドバイザー 
宋 文洲氏

高尚な人は嘘をつかず、卑劣な人は嘘をつく。嘘とはすべて悪いもの。だから「おまえは絶対に嘘をついてはいけないよ」と教えるのが日本の教育です。

おかしいと思いませんか?

事実とは異なることを言葉にするのが「嘘」だとしたら、人の世は嘘で満ちています。たとえば、嘘をつくなと教える同じ人が「ほめて育てましょう」と主張します。ほめて育てるのはいいことですが、できていないのに「よくできました」とほめるのは嘘なのです。

人間にとって宗教は大切です。つらい目に遭った人が、宗教に帰依することで生きる勇気をもらったり、明るくなったりするのは珍しいことではありません。でも、私のような無神論者にとっては、神の存在や神秘体験など宗教の構成要素の多くは嘘。宗教に限らず、人間の精神活動の半分どころか、大半は嘘だといっていいでしょう。

つまり「嘘をつく」ことイコール「悪いこと」ではないのです。嘘とは単に「事実とは異なること」であり、高尚な人だろうと卑劣漢だろうと、ほとんど同じ比率で嘘をつきます。そこに善悪はありません。鋏や包丁と同じで道具にすぎず、「どう使うか」が問われるのです。

たとえば、人を傷つけないために、事実とは異なることを話して、相手の気持ちを明るくするのは「いい嘘」です。死期が近い重病人に「大丈夫、よくなりますよ」と励ましの言葉をかけるのは、最期まで心安らかに過ごしてほしいと願うからです。

日本ではよく「嘘も方便」といいます。事態を丸く収めるため、仕方なく嘘をつくといったニュアンスです。しかし、いい嘘は「仕方なく」つくのではなく、前向きに、積極的に使うものです。だから私は「方便」という表現が嫌いです。