同じような危機意識をもとに進められているのが教育制度の改革である。ひところは「詰め込み教育」の弊害が叫ばれ、時を経て個性を重視する「ゆとり教育」が実現した。ところが今度はその「ゆとり」が学力低下を招いたとして、再度の制度見直しが進行中だ。いくらかバタバタしている印象はあるが、見直しをすることは必ずしも悪いことではないと思う。

もちろん長期にわたって安定した制度を構築することができればいいのだが、その道が見つかるまでは、微修正を繰り返すのもひとつのやり方だ。決めたことだからといって猪突猛進するよりも、悪いところがあれば針路を変える柔軟さを持つほうがいい。

ただ、制度の改革にあたり、時の政権の意向があまりに働きすぎるのは考えものだ。たとえば民主党政権ではこう変えるが、自民党政権になったらまた元に戻す――という調子でやられたら国民は迷惑する。教育は外交や防衛と同じく、政権のいかんにかかわらず基本方針を貫くようにしなければならないだろう。

そういう留保条件をつけたうえで僕の意見を述べれば、日本の教育制度はこれまで素晴らしい成果を挙げてきたし、現状でも世界に誇れるものだと思う。

僕の子どものころには1クラス50人くらいが普通だった。しかし現在、たとえば東京の公立小学校では30人クラスが実現しているというし、担任以外に図画工作など専門教科の先生も配置されている。それだけキメ細かい教育が実現しているということだ。

設備に関しても同じことがいえる。僕が北大に入学したのは戦後間もないころで、国の予算そのものが非常に限られていた。当然ながら建物も研究機器類もそれはお粗末なもので、外国の研究者を招いたりすると恥ずかしくなるほどだった。現在の充実ぶりと比べれば、別の国の話のようである。

いまも高等教育の費用が高いなどの問題はあるものの、全体的には素晴らしい教育制度であり環境であるといえるだろう。そこを踏み台にして、羽ばたいていく覚悟がなければならない。

いまの日本は身分社会ではない。中央官庁のような特殊な世界を除けば、学歴による差別も諸外国に比べれば緩やかなほうだ。イギリスならオックスフォード大学やケンブリッジ大学の出身者は別格の扱いを受けている。アメリカも同じようにアイビーリーグなどの主要大学出身者が他を圧している。