社会を変えるなんて、考えたこともない

フォルカー・キッツさんたちの『仕事はどれも同じ』にはこうあります。「世の中で起きることが悪いのではなく、悪いのは私たちの考え方なのだ。そしてそれが私たちを悩ませるのだ。私たちは世の中を変えることこそできないが、以上の考え方は健全である」(キッツ・トゥッシュ、185p)。

自分の考え方を変えることで改善できることはもちろんあるでしょう。しかしながら、どう考えても職場環境や、それらをとりまく社会経済的状況(あるいは政策)との関連から考えたほうがよい場合もあるはずです。職場や社会を変えるのが容易でないのは当然にしても、キッツさんらはあまりにも、自分自身の変革以外の可能性をあっさりと切り捨ててしまいます。世の中は変えられないのだ、とあっさり言い切ってしまうのです。前回言及したように、木暮太一さんの『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』でも、カール・マルクスの学説を多く引いておきながら、環境の改善には目もくれず、自分自身の考え方(自己内利益の最大化)を変えようと主張されていました。

ここで私が言いたいことは、環境を変えればすべての問題が解決するということではありません。職場環境をとりまく文脈を広く考慮する著作であっても、環境そのものの改善はほぼ捨て置かれ、能力の向上や内面の変革のみが私たちに行える唯一のことだという声ばかりがある、言論のバランスの悪さに注目したいのです。

自ら選択肢を減らす必要はないと思うのです。人間関係、職場環境、労働をめぐる状況、政策にも一因がある――そのなかで今自分にできること、できないこと、より広く考え直していくべきことは何か、あるいは根を詰めるのをやめて休息をとる――という考えを自ら切り捨ててしまうこと。それによって、すべて自分で引き受けるか否かという二つの選択肢に自らを追い込む必要はないと思うのです。西多昌規さん(『今の働き方が「しんどい」と思ったときのがんばらない技術』)はこのような二分法的思考をとることを、教育学者アダーホルト・エリオットさんが指摘した「All or Nothing思考」(31p)という用語から戒めていました 。

すべて自分で引き受ける自責モードに自らを変えろという仕事論ばかりが溢れている、言論のバランスの悪さそのものを観察すべきかもしれません。というのは、このような状況は、社会学者の森真一さんが『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(2000、講談社)のなかで、近年における社会の「心理主義化」と述べた傾向にまさに合致するからです。森さんは「心理主義化」について、以下のように定義しています。

「心理学や精神医学の知識や技法が多くの人々に受け入れられることによって、社会から個人の内面へと人々の関心が移行する傾向、社会的現象を社会からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向、および、『共感』や相手の『きもち』あるいは『自己実現』を重要視する傾向」(森、9p)

今回とりあげた著作にこれらの定義のすべてが当てはまるわけではありませんが、仕事をめぐる辛さやしんどさといった、社会的ともいえる現象を、社会からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向は各著作において顕著に見られるものでした。私のような立場からすると、各仕事論において最も興味深いのはこの点、つまり「心理主義化」という概念がまさに当てはまるような傾向が観察された、という点なのでした。