銀座のクラブが家庭の理想化されたコピーだと考えると、クラブの調度品や家具が住宅の居間と似通っているのはごく自然な成り行きとなる。「低いテーブルのまわりを囲む、柔らかすぎるほどのソファー、床には毛足の長いカーペットが敷き詰められ、かべ、天井の仕上げにもレンガ、木、スゥエード、布といった暖かみがあって柔らかい材質が選ばれる」といった具合だ。結果として、本物の家庭以上に家庭を想起させるインテリアになる。

もちろん実際の家庭にはシャネルスーツをいつも着ていて絶妙のタイミングでおしぼりを出してくれるような妻などいない。自宅クラブ(踊るほう)がある家はあっても(あまりないかな?)、自宅クラブ(飲むほう。もちろん女性によるサービス完備)が装備された家庭はそうそうないだろう。「デフォルメした理想の家庭をコピーした銀座のクラブを再度コピーしたクラブ派住宅」は、端からリアリティーが欠如している。ようするにクラブというのは「ディズニーランドの家庭版」だ、というのが著者のメタファーである。

「建築家のチャールズ・ムーアがディズニーランドについてこういうことを言っている。ロサンゼルスにはいわゆる街というもの、つまり昔の街ならどこにでも存在していたような、歩行者のカルチャーというものがない。それを味わうために、人は入場料を払ってディズニーランドに行くのだと」

現実世界では望んでも体験でない「家庭」を味わうために人は入場料を払ってクラブに行く。さらに家庭のコピーであったクラブという空間を本物の家庭がまたコピーするという倒錯が起きる。なぜこんなことになるのか。著者の結論はこうである。

「クラブ派が家庭というもの、それ自体が持っている『有難み』をまったく理解できなくなってしまっているからである。あまりに日常的で、身近なものゆえに、家庭がどれだけ『有難い』かがわからなくなっているのである。その『有難み』を理解するために、家庭を一度、クラブという鏡に映してみなければならなくなってしまったのである。クラブという鏡に映すということは、その『有難み』を一度貨幣に換算するということである。貨幣に換算されて『有難さ』のお墨付きをもらったスタイルが、クラブ派のスタイルである。お墨付きをもらった上で、それは再び家庭に持ち込まれる。ディズニーランドが鏡に写された『街』だったとすれば、クラブ派は鏡に写され、そして投げ返された『家』である。」

ことほど左様に、『10宅論』はメタファーをテコにして抽象と具体を高速で往復しながら、住宅の象徴作用の本質を明晰かつユニークな筆致で抉り出す知的ゲームになっている。「だから何?」と問われても、「いや、別に何もないけどこれって面白くない?」というだけの話。徹頭徹尾、遊びである。著者自身、文庫版のあとがきに「この本は一種のでっちあげ」「これをノンフィクションと信じて読んで下さった読者の方々に、最後でとんだ肩すかしを食わしてしまった事に対し、深くお詫びする」と、ぶっちゃけている。

最初の著作である『10宅論』は、後年の『負ける建築』や『場所言論』のように著者の本業である建築物への具体化を伴わない、純粋な「思索の試み」である。それだけに、著者がひたすら好きでやっていることがよく分かる。場所とか、コンテクストとか、そこにいる人間とか、そういうものにとにかく強い関心がある。だからこそ、これだけ凝った上質な知的遊びが出てくる。若いころに勢いで書いたような本だけに、ものごとの本質を突きとめようとするときの著者のアタマの回し方が剥き出しで表れている。

ものづくりの経営学の泰斗、藤本隆宏さんもそうなのだが、隈研吾さんもまた「好きこそものの上手なれ」の権化のような人である。若いときから好きで続けてきた知的な営みが、のちに独自の建築の概念へと結実し、それを仕事として自ら建築物に具現化する。仕事をする人間の姿としてつくづく理想的だと思う。分野はまるで違うけれども、僕にとって憧憬の対象だ。

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