「順当に行けば次はオオマエ」

1983年10月、マレーシアにてマハティール首相が主催したセミナーの記念品(現地名産の錫のカップ)。このとき大前さんは「Sharing Experience」と題した講演を行っている。(撮影=市来朋久)

「世界化」にしても「戦略化」にしても、マキンゼーの体質転換は恐らくアメリカ人ではない「異邦人」であった私がいなかったらできなかっただろう。イギリス人なら日和るか、戦うかして、あまりうまくいかなかったと思う。ドイツ人の場合はアメリカとあからさまに戦うことを恐れる傾向がある。

私は実績抜群ながら中立と思われていたし、日本人ということも大きかった。当時の日本は日の出の勢いだったから、日本に頼らないといけないという世界的なムードもあった。

一方で、アメリカのテレビに出て日米貿易摩擦の問題でアメリカをコテンパンに叩いたりしていたから、マッキンゼーのコンサルタントがクライアントから「アンタのところの大前ってヤツは生意気だ」と叱られることもあった。

マッキンゼーにとって大前研一は秘密兵器のようなものだったが、クライアントから叩かれるのはまずい。「ウチの顧客が大前の活動を不快に思っている」と社長に密告する輩もいた。

あるいは「あいつは東京で仕事をするべきなのに、何でマレーシアばかり行っているんだ?」と文句を言うパートナーもいた。独裁的でアジア主義のマハティール元首相のアドバイザーを私は18年間続けていたが、欧米人には不人気だったからなおさらである。

しかし、当時の社長ロナルド・ダニエルは「ダイビングが好きなんだから、まあいいんじゃない」という調子でご御忠進には耳を貸さずに私を庇ってくれた。活躍の場を与えてくれたダニエルには本当に感謝している。

80年代の中頃、フォーチュン誌のマッキンゼーの次の社長は誰かという記事にとり上げられた。ペブルビーチでゴルフをしているときにフォーチュンのカメラマンが撮影にやってきて、「マッキンゼーは今、形を変えている。その駆動力はオオマエである」という記事にそのときの写真が添えられた。

「順当にいけば次はオオマエ」

一時期、マッキンゼーの内部ではそんなムードがあったのは事実である。しかし、私は社長にはまったく興味がなかった。

マッキンゼーという会社では、社長は仕事がない。ダニエルにしても、気の毒なくらいに世界中をぐるぐると回って、スーパーコーディネーターのような感じで、事務所の機嫌を取っていた。根っからのコンサルタントである私はあれを見ていたので、社長になって社内業務やコーディネーションをやりたいとは思わなかった。