「WASP支配」の組織で無血革命を

「大前研一のマッキンゼー・ワールド・レポート」。1990年代初頭に「プレジデント」誌上で連載。日本企業が世界化を進める際の水先案内人的レポートだった。(撮影=編集部)

前項の「戦略化」と並んでもうひとつ、私はマッキンゼーの変革に大いに力を注いだ。「世界化」である。

今でこそマッキンゼーは世界44か国に80以上の拠点を持っているが、私が入った当時はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、スイス、ドイツ、それから日本とオーストラリアぐらいにしか事務所はなかった。

当時社長だったロナルド・ダニエルと東京事務所長時代に私を育ててくれたクインス・ハンシカーが中心になって「2000年のマッキンゼー」というプロジェクトを立ち上げ、グローバル化を推進することになった。将来のマッキンゼーを背負って立つ人材が集められ、スイス事務所からハンス・ウィドマー(私のMIT時代のクラスメート)、ドイツ事務所からハーブ・ヘンツェエラー(後のマッキンゼー・ヨーロッパ社長)、サンフランシスコ事務所からテッド・ホール(後にエグゼクティブ・コミッティのメンバー。ロバート・モンダヴィの会長を務めたあと、現在はナパバレーでワイナリーを経営)、そして東京事務所からは私がプロジェクトメンバーに選ばれた。

私はイタリア、スペイン、ポルトガル、メキシコ、ブラジルなどの事務所の開所に立ち会ったし、アジアでは東京、大阪、韓国、台湾、香港の事務所を立ち上げた。私が在籍している間には事務所にはならなかったが、マハティール元首相のアドバイザーをしていた関係でマレーシアにも拠点を置いた。

しかし、私にとってはそんな仕事は二の次で、「世界化」の真の目的は別にあった。要はアメリカ本社中心、アメリカ人優先、WASP(White、Anglo-Saxon、 Protestant)支配、東海岸のハーバードエリートというイメージのマッキンゼーを実力主義の会社に変えることである。

当時は世界の事務所の所長は全てアメリカ人。ある意味では階級闘争であり、民族闘争だった。しかし民族派の突き上げとなると“主流派”のアメリカ人は反発する。そこはヘンツェラーたちと毎晩のように連絡を取り合いながら綿密に作戦を練って、深く静かに「世界化」を進めていった。

自分の数字を上げることはもちろん、困っている事務所があれば間髪入れずに出かけていって手を貸した。折しも日本の輸出攻勢にアメリカが悲鳴を上げていた時代で、弱っているアメリカ企業をサポートすれば「マッキンゼーには日本に強いヤツがいるから安心だ」と評判が上がった。

組織を内側から変えるためには実力と説得力が要る。それを両手に私たちはマッキンゼーの経営の中枢に入り込んで、ディクレターズ・コミッティや常務会を徐々に多国籍化していった。言ってみれば無血革命である。これを成功させた世界企業はほとんどない。