6年半の「巡回」で各職場の内容知る

66年4月、明治乳業に入社。それまで明治製菓も明治乳業も一緒の会社だと思っていたが、入社して別々の会社だと知る。最初の配属先は市川工場で、3年目には経理主任となって、29人の部下を持つ。工場は当時、東洋一の規模。最先端の牛乳専門工場で、1日に100万本つくっていた。普通は3年程度で転勤になるので、次は営業部門を希望していたが、2年目に労組の執行委員となり、3年目に副支部長、4年目には支部長にもなった。お陰で営業にはいけなかったが、組合員500人と交流し、いろいろな職種の人を知り、各職場の事情にも通じる。

7年たって、本社の監査部へ異動した。部長以下7人の小世帯で、生産から販売まですべての部門をチェックする仕事だから、全国に約50あった事業所の大半を回る。1年のうち3分の2は出張で、週末も出張先ですごすことが多く、各地の名産を味わうこともできた。

75年秋、人事部労務課へ移る。担当は職場の労務管理で、労働基準法などを遵守するように指導するため、やはり全国の事業所回りが続いた。こちらは4年。監査部と合わせて6年半の巡回で、工場や営業の現場も含め、今度は会社全体の仕事について理解が深まっていく。

もっと大きかったのは、「勞於索之」のための社員データベースが、頭の中に構築されたことだ。当時、6000人いた社員のなかで、2500人まで名前と顔が一致するまでになる。のちに人事部長になったときも、新しい事業チームをつくるときも、大いに役立った。

2003年4月、社長に就任。デフレの長期化、競争のグローバル化と自由化の進展、食品に対する消費者の厳しい目、人口減など、経営環境は厳しい。でも、社員たちには「当たり前のことを、当たり前にやっていくことが大切だ」と説く。「段取り八分」の教えも続く。

2009年4月、明治製菓と経営統合し、持ち株会社の明治ホールディングスを設立した。製菓は、1906年に創業した明治精糖から生まれ、乳業は製菓の乳製品部門が独立してできた。「1つの会社」は間違いだったが、源流は同じ。2年後、両社の事業を再編し、薬品事業以外を「明治」にまとめ、今度はその社長を務める。昨春の福島原発事故の影響で、12月に自社の粉ミルクから、暫定規制値以下とはいえ放射性物質セシウムが検出された。でも、事業統合で「明治」に統一したブランド力が浸透し、乗り切った。

この6月、持ち株会社の社長になった。事業会社から離れるのは、さびしい。でも、グループには1万5000人を超える社員がいる。統合で、人材はさらに多様化した。営業部門や研究所の部長、課長クラスの交流も、進めている。もちろん、経営環境は厳しさが続くが、「勞於索之」さえきちんと実践すれば、統合の相乗効果は、必ず出るはずだ。

振り返れば、関西支社ですごした2年3カ月や、次号で触れる冷凍食品の開発に取り組んだ40歳前後の課長時代が、ビジネスパーソンとして最も面白く、楽しいときだった。当時の部下たちと一杯やれば、思い出話は尽きない。そして、「段取り八分」の話も出る。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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