日本陸軍も手本にした木下藤吉郎の「殿軍」

「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」をご存知でしょうか。1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦いのひとつで、金ヶ崎の退き口(のきくち)、あるいは金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦のことです。

織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃、敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略は成功したものの、同盟関係にあった浅井家の裏切りにあい挟撃の危機に瀕しました。信長本隊が京へ逃げ延びるのを援護すべく、木下藤吉郎(後の秀吉)らが後衛となったのですが、信長撤退後の諸将の行動は非常に統率のとれたもの、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めたのです。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称え、黄金数十枚を与えたそうです。

金ヶ崎の戦いは日本陸軍でも撤退戦の手本とされ、1945年8月、大東亜戦争敗戦時に外蒙古より進入するソ連軍機械化歩兵師団を前にして、駐蒙軍参謀の1人辻田新太郎少佐は次のように訓示しています。「我々は駐蒙軍の後衛である。後衛は古来武人の名誉とされた。前衛には本体の支援があるが後衛にはない。戦国の昔、元亀元年の織田信長越前撤退にあたり、諸将逡巡する中、木下藤吉郎は進んで殿軍を引き受け見事にその任を全うした。世にこれを金ヶ崎の殿軍と称揚した。」と前置きし、「我々も殿軍を見事に勤め上げ、音に響いた響師団の名を辱めないようにしようではないか。」と訓示している。そして辻田は、ソ連軍の侵攻を遅らせ、4万の在留日本人の後送を援護したのです。

今回は、経営者にとって最も難しい意思決定のひとつである、「撤退戦」について考えてみることにします。