ビジネス書の歴史的ベストセラー

おそらくこのシリーズでとりあげる最古の本になるだろう。井原西鶴の『日本永代蔵』である。西鶴がこれを書いたのは、1688年、47歳のときだったというから、いまの僕とだいたい同じ年ごろである。こっちはいまだに中途半端な中年ど真ん中だが、当時の47歳というともう老人の域だろう。筆致が老成している(以下の引用は、角川ソフィア文庫『新版 日本永代蔵』の堀切実さんの現代語訳に基づいている)。

一橋大学大学院
国際企業戦略研究科教授

楠木 建
1964年東京生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専攻は競争戦略とイノベーション。日本語の著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『知識とイノベーション』(共著、東洋経済新報社)、監訳書に『イノベーション5つの原則』(カーティス・R・カールソン他著、ダイヤモンド社) などがある。©Takaharu Shibuya

時代背景を確認しておこう。この本が書かれた当時は、経済が統一的な貨幣で動き出したといわれる寛永期からすでに40年ほど経過している。商業活動も社会に広くいきわたり、普通の人々の商売に対する関心が高まっていたと思われる。

さらに時代が下って江戸時代の半ば以降になると、「手金」と言われた資本力にものをいわせた新しいタイプの商売を行う新興勢力が出てきて、経済活動の中心になる。『日本永代蔵』はそうした商業資本主義への過渡期にあたる時代に書かれている。したがって、本書が生き生きと描かいているのは、わりとプリミティブな商売や商人の姿だ。コンプライアンスもJ-SOXもIFRSもMBOもTOBもNPVもEBITDAも関係ない剥き出しのド商売。当時としても非常にわかりやすいビジネス書だったのだろう。発売当時だけでなく、江戸時代を通じてずっと読み継がれる超弩級のベストセラーになった。いまだったら、1500か月連続で丸善丸の内本店の1階に常時山積みになっている、というイメージである。

同時代によくあった「教訓を淡々と語る」タイプの本ではなく、本書はエンターテイメントの要素を備えた娯楽的な教養本、あるいは教養的な娯楽本という体裁をとっている。登場する人々のキャラ立ちがよくて面白い。そのままドラマや映画にできそうなエピソードが満載だ。いまほど書物も娯楽もない時代だったから、世の中へのインパクトということでいえば『もしドラ』の100倍ぐらいあったのではないだろうか。

この本のタイトルにある「永代蔵」とは「永続する蔵」のこと。金持ちになること、資産を増やすことを第一とする江戸時代の商人の生き様や悲喜劇を描いている。ありとあらゆる成功や失敗の話が詰まっているが、そのほとんどが西鶴の作り話。サービス精神豊富で、誇張が入りまくっているからめっぽう面白い。面白がって読んでいるうちに、教訓のめいた部分もすんなりと頭に入ってくる。要するに、おカネを貯めるには、増やすには、減らさないためには、という話の連続だ。よっぽどカネの話はニーズがあったのだろう。

それは今でも変わらない。雑誌『プレジデント』がよい例だ。やたらとカネの話が多い。さまざまな事象や行動や思考を「年収」で層別して論じる記事が必ず出てくる(「年収3000万以上の人の情報整理術」とか「金持ち父さんの……」みたいな。ちょっと目を離すと、何でもかんでもとにかく年収で切り分ける。以前のブックレビューの特集でも、「年収別、人気ビジネス書ランキング!」とかいうのがあった。僕の本はわりと年収が高い人に好まれているようだが、何を意味しているのかな?おそらくなにも意味していないと思うが。それにしてもこの話題はよくこれだけ続くものだと感心する。そのうちにネタ切れになってきて、「年収100億以上の人の……」とか「年収1000円以下の人の……」というように極端に走るしかなくなってくるのではないかと、他人事ながら心配になる。もしくは「年収1000万以上の人の爪の切り方」とか「年収3000万家庭のゴミの分別法」とかのディテールに走る、というものアリかもしれない)。考えてみればずい分下品な話ではあるが、ま、世の中はそれだけおカネに興味があるということだろう(正直に言えば、僕も嫌いじゃない)。今も昔も人間の本性は変わらない。