90年代における「純文学」小説の失墜

90年代なかばごろに、「純文学」小説の特権的な地位がうしなわれたことは、この連載でくりかえしのべました。

日本文学研究者
助川幸逸郎

1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
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時期をおなじくして、クラシック音楽や前衛美術の権威も、大きく低下しました。

「芸術」全般にわたってこうした変化が生じたのは、

「途上国の原料を先進国に運んで加工し、世界じゅうに売る」

という、19世紀以来のシステムが限界に達したからです。このシステムは、1973年のオイル・ショックによって決定的な打撃を受け、東西冷戦が終結した90年代には破綻を隠せなくなりました。

「芸術」と呼ばれてきたものは、この「寿命の尽きたシステム」に対応したものでした。工場で製品をつくったり、そうしたものづくりがスムーズに運ぶようサービスをしたりする、先進国の労働者――そんな彼らに、「この世をこえたすごいもの」を見せる装置が、近代の「芸術」だったのです。

いまでは工業生産は、おもに先進国以外のところでおこなわれています。「純文学」をはじめとする「芸術」が、機能しなくなるのも当然です。

もっとも、だからといって、「この世をこえたすごいものに触れたい」という欲求が消えたわけではありません。そこで、既存の「芸術」にかわって、べつの分野でそれをみたそうとするうごきがあらわれます。そのようにして生まれたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』や平成版『ガメラ』だったわけです(『エヴァ』のテレビ放映がはじまったのも、平成版『ガメラ』の第一作が公開されたのも、1995年です)。

村上春樹は「純文学」作家をはかる尺度ではつかまえきれない作家です。「この世をこえたすごいもの」を見せる装置とは異質の、「体験型アミューズメント」として小説を書いていることは、この連載の3回目(>>記事はこちら)にのべました。

このような作家であるせいで、芥川賞をのがすなど、春樹はキャリア形成のうえで不利も受けました。そのかわり90年代には、「純文学」の没落の影響をまぬがれ、かえって作家としての存在感を増すことに成功しました。

このように書くと、90年代なかば以降、いっきょに「春樹の時代」が到来したような気がしてきます。しかし、ここまでのべてきたのとはべつの意味で、世紀の変わり目のころの春樹は危機をむかえていました。