川本信正(「五輪」の名付け親)

かわもと・のぶまさ 
訳語「五輪」の名付け親。スポーツ評論家。1907(明治40)年、東京都生まれ。東京商大(現一橋大)卒。読売新聞に入社し、運動部記者として活躍。1932(昭和7)年、ロサンゼルス五輪の男子100メートル決勝に進出し、アジア人初の6位入賞を果たした吉岡隆徳を「暁の超特急」と命名。戦後はJOC委員も務めた。著作に『スポーツ賛歌』(岩波ジュニア新書)など。1996(平成8)年没。

父の川本信正さん(故人)は信念の人だった。スポーツを通した国際平和の建設を目指すオリンピック運動を尊び、過剰なナショナリズム、過剰な商業主義を嫌っていた。

時代は変わった。過剰な演出は当たり前となった。ロンドン五輪、延々と続く派手な開閉会式。長男の峰男さん(東京ドームプロパティ管理部長)、いわく。「もう商業主義云々を超えています。コマーシャリズムがないと大会は運営できない。ただ、おやじが生きていたら、オリンピックをどういう風に見るかというと、もう呆れかえって、ひっくり返っているかもしれない」

川本信正さんは読売新聞運動部時代の1936(昭和11)年、オリンピックのことを初めて「五輪」と訳し、定着させた。オリンピックの5つの輪を思い浮かべ、剣豪・宮本武蔵の『五輪書』と結び付け、五輪という訳語が生まれたという。ついでにいえば、32年のロサンゼルス五輪、陸上100メートルの吉岡隆徳を「暁の超特急」とも名付けた。

信正さんは戦後、フリーランスのスポーツジャーナリストの先駆者として活躍した。舌鋒鋭く、スポーツの本源を伝え続け、特に政治の介入を徹底批判した。日本オリンピック委員会(JOC)委員だった1980年、信正さんはモスクワ五輪ボイコットに反対票を投じた。だが多くのスポーツ仲間がボイコット賛成に回った。不参加決定。数日後、信正さんはJOC委員を辞めた。

峰男さんは思い出す。「スポーツは政治から離れて、純粋な立場であるべきだと言っていた。言語道断だ、と。おやじは、五輪はあくまでスポーツの祭典として政治から独立してあるべきものだという信念を持っていました」と。

峰男さんはロンドン五輪をテレビ観戦した。柔道の福見友子は国民の期待に押しつぶされたように見えた。「金メダル第一号確実という重圧。あれはすごくかわいそうだった」と振り返り、「ナショナリズムは以前より強くなっている気がする。五輪はもっとナショナリズムから独立できないものか」と漏らす。

川本信正さんは96(平成8)年、他界した。88歳だった。父の五輪の不安は現実となった。スポーツを愛する56歳の峰男さんも五輪の行く末を案じながら、「五輪運動において、世界の若人が一堂に集まるのが大事」と言うのである。