「心理資本」が人生に差をつける?

さて、最後にもう一度、石原さんの『「しつこい怒り」が消えてなくなる本』における、ある言及に注目してみたいと思います。「心」系ベストセラーではしばしば、自分を大切にしない思考習慣は幼少期から形成されたものだと説明されるのですが、そのように自らを育ててきた親との関係性修復に関する箇所に、次のような表現があります。

「(親たちの世代は:引用者注)『自分を表現する』などといった方法を学んでいないどころか、それ以前に、親の時代は、社会環境そのものが、『自分の気持ちを見つめる』などといった高度な精神社会ではなかった」(97p)。

ここから読み取ることができるのは、 「心」の向き合い方に関して、「高度」なものとそうでないものがあるという価値観です。ここでポイントとなるのは、日々精神を鍛錬していることや、人格が高潔であることではありません。高度であるか否かの分岐点は技術論、つまり「心」を扱う方法に習熟しているかどうかにあります。石原さんにしても、植西聰さんにしても、小池龍之介さんにしても、数多ある「心」関連著作のタイトルには「レッスン」「メソッド」「ステップ」「テクニック」「マニュアル」「ルール」「コツ」「方法」「法則」「稽古帳」「練習」「習慣」といった言葉が並んでいます。つまりこれらの書籍においては、「心」はじっくり向き合うようなものではなく、彼(女)らが編み出した技術の適用対象だと考えられているのです。

ここで自己啓発書一般に目を向けてみるとどうでしょうか。「心」の扱い方――より具体的には「○○力」「○○する技術」「○○する習慣」といった文言で表わされる――が、成功のキーポイント、もしくは必須条件であると語られることは、かなりよくみられるのではないでしょうか。

教育工学者の中原淳さんは、『プレジデント』の小論のなかで「ポジティブ心理資本」という言葉を紹介しています(「雑巾がけも楽しくなるポジティブ心理資本とは」『プレジデント』2012.2.13)。働き方に対する従来的な価値観――年功序列的な出世と賃金上昇、一社で全うされるキャリアなど――が揺らいでいる今日、「どんな苦難に際しても、選択肢をいくつか考え、物事を前向きに捉える」(64p)というような考え方、いわば「心」のあり方が、その後のキャリアを左右する「資本」として機能するようになってしまったとして、このような言葉を紹介されています。

中原さんが述べるとおり、「心」のあり方を基準として、ある人が他人より優れているという差異化・卓越化がなされる場面は、今日の世の中ではしばしばみることができるように思われます。ただ、ポジティブすぎないこともまた一つのスキルだと語られることもあるため、中原さんの議論をより広く適用するためには、先の表現は「心理資本」や「感情資本」という言い方にした方が汎用性を高くできそうです。

さて、「心」のあり方がキャリアを左右する「資本」になっていること、つまり「心理資本」「感情資本」という観点があてはまるのは、何より就職活動ではないでしょうか。「自己分析」「自己PR」、つまり自分自身の「心」をどれだけ掘り下げたか、「本当にやりたいこと」をみつけることができたか、それをどれだけうまく面接でアピールできたか(アピールする能力の開発も自分次第とされます)が採否を分けるという物言いが浸透して久しいですよね。実際、学生にしても採用担当にしても、これらの物言いをどの程度信じているのかのばらつきはあるにせよ、それでも、一定の人たちがこれを信じて動いているはずです。

自己啓発書ではより明確に、「心」の扱い方が人生を、成功をすべて司ると断言されます。就職活動に関して曖昧に、中途半端に広がっている考えが、より端的に結晶化しているわけです。 そしてまた端的に、「心」の扱い方を知っている人(著者含む)とそうでない人――「心理資本」「感情資本」を有している人とそうでない人――の差異化・卓越化が行われているのです。望ましい「心」の扱い方は、より具体的には先に挙げたとおり「○○力」「○○する技術」「○○する習慣」と表現される場合が多いのですが、これらを自覚的に身につけ、コントロールできるかどうかが、決定的な差を生むのだ、と。

これらの物言いをどの程度人々が信じているのかは、やはりばらつきが大きくあるとは考えられます。しかしこうした物言いをしばしば含む自己啓発書が近年よく売れていることを考えると、「心理資本」「感情資本」という差異化・卓越化規準は、世の中に少しずつ浸透しつつあるといえるのではないでしょうか。

そうだとすると、「心」系自己啓発書に極端なかたちで表われている考え方を、私たちは決して笑えないということです。自己啓発書に比べれば曖昧で中途半端なかたちであるかもしれませんが、私たちの暮らす社会、あるいは私たち自身のうちに、「心」の扱い方を人の評価基準としてしまう考え方が少しずつ根をおろしているということなのですから。

さて、次回は近年の分かりやすいトレンドに目を向けてみようと思います。つまり「20代のときにしておくこと」「30代のときに……」といった、「年代論」です。

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