給料を上げたらいい人材がくるのではないか

それでも何とか5年はがんばった。だが、そのまま媒体屋として発展することに限界を感じた。

05年、翌春卒業分の採用を最後に「就職コンパス」を閉じ、私たちは同業である毎日コミュニケーションズの代理店をやることとなった。当時はまだ一般家庭に、ネットで動画が見られるほどのインフラも整っていなかった。結果として、私たちが時代の先をいきすぎていた。

「就職コンパス」の最大登録者数は20万人までいった。ただ実際には、他社との一括登録で登録した学生も多かった。しかも、サイトには私たちの顧客である300社ほどの中小企業の情報しか載っていなかった。

実際に稼働していた学生の数は5万人というところだろう。それでも、それだけの数が稼働していれば事業としては立派だった。

自社の新卒採用にも力を入れた。いい人材は、いくらでもほしかった。まず考えたのは、給料を上げたらいい人材がくるのではないかということだった。

私は日本でいちばん仕事のできる人間は、いちばん給料が高くなくてはならないと思っていた。そこで、とにかく給料を増やして社員の平均年収を1000万円にしようと考え、年俸ベースで給料を上げていった。

03年には、売り上げも15億円まで伸びていた。その年に初めて出版した本『採用の超プロが教える できる人できない人』がベストセラーになり、会社の認知度が高まったのも大きかった。

会社説明会を開くと、社員数が50か60の会社にもかかわらず、3000人もの学生が集まるようになっていた。そこで説明会の動員目標として5000人を掲げたところ、簡単に動員できた。これは1万人まで増やせると思い、いちばん多い年で1万5000人と会った。

ただ、数を集めたからといって、いい人が採れたかといえば、必ずしもそうではなかった。