「秘密の花園」はどこにもない

先日、この連載の担当編集者であるNさんのおさそいで、経営学者の楠木建さんと、投資ステラトジストの広木隆さんのジョイント講演会にいってきました。

楠木さんには、拙著『光源氏になってはいけない』の出版に際してお世話になり、帯に推薦のことばまで書いていただきました。経営学者でも投資家でもない私が、このイベントにお邪魔する気になったのは、「ご恩のある楠木さんの講演だから」でした。

けれども講演の内容は、文学研究者である私にとってもたいへんに刺激的でした。楠木さんも広木さんも、

「無理に『他人とちがうこと』をしようと思うな!」

「『必殺技』の一撃で勝とうとするな!」

ということを、なんども強調しておられました。

まだ、だれも気がついていない画期的なアイデアによって、決定的な優位を築くのが経営の極意である――ふつうの人はそう考えます。じぶんだけが知りえた情報によって、ドラマティックに利益をだすことを、夢想しない投資家もいないはずです。

そうした「華麗なる勝利」をめざしているかぎり、成功はおぼつかないと、楠木さんと広木さんはいうのです。

世界のいたるところにウェブ情報網がいきわたり、だれもがどこからでもニュースを発信できるのが現在です。そうしたなかで、画期的な経営上のアドバンテージを手にしても、かつてとはくらべものにならないほどの早さで競合相手に模倣されます。価値の大きい情報を、個人や一企業がながく独占することも不可能です。

「この場所を見つけたら、いつまでも利益を出せるという、『秘密の花園』はもはや存在しない」

それが、楠木さんと広木さんの結論でした。エントロピー的拡散がケタちがいに加速された結果、経営や投資の世界は、ひとつの武器だけでは勝ちぬけないフィールドになったのです。

日本文学研究者
助川幸逸郎

1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
ツイッターアカウント @Teika27

だったら、どうすればいいのだ――当然、そういう疑念が生じてきます。楠木さんはこの問いに、

「細部が緊密につながったシステムを構想できる、『センス』を身につけること」

とこたえていました。

楠木さんのいう「センス」とはどのようなものなのか、私はつぎのように理解しました。

プロスポーツの世界も、昨今では経営や投資と似たことが起こっています。ビデオやコンピュータをつかったプレー解析が導入され、「必殺技」の耐用年数が、どんどんみじかくなっているのです。

21世紀のプロスポーツで成功するには、「必殺技」にたよらず「総合力」で勝負しなければなりません。こうした「総合力」勝負でたいせつなのは、球威、コントロール、戦局の読みといった「部分的能力」を、スムーズに連繋させるちからです。三振よりもダブルプレーが必要な場面で、バッターがかすりもしない剛球を投げたりしていては、安定した活躍はのぞめません。

おそらく、楠木さんが「センス」と呼んだのは、「総合力」勝負のキモとなる「連携させるちから」のことです。

「すぐれた経営者の発想をたどることは、センスを磨くのに役だつ」

と楠木さんはおっしゃっていました。このことばも、「センス」を「連携させるちから」だととらえるなら腑に落ちます。すぐれた経営者の発想をたどることは、「部分」を連携させるプロセスを追体験することになるからです。