「正しいこと」より「切実なもの」

「シナリオ骨法十箇条」のその十の「オダイモク」のところでも、実際にドラマを書き進めるうちに湧き上がってくるテーマと、最初に決めたテーマに差異が生じたら、そのときは最初に考えた観念的なテーマを捨てよ、と笠原は言っている、書くことを通じてつかんだテーマのほうが、血が通っているものだからだ。ただ、脚本を書き上げたときに、本当に自分が伝えようと思ったテーマが、十分に示されただろうかというのは確認する必要がある。つまり、「お題目」を唱え直してみるのである。

「お題目」とはその映画の持っている「志」や「切実なもの」といった言葉にならないものである。それは特定の場面やセリフだけでは伝えられない。映画は笑わせたり、ハラハラさせたりするのも大切だが、見終わってそれだけだとどこか物足りない。「笑わせるにせよ、ハラハラさせるにせよ、その中にひとつ『切実なもの』が貫通していなければ、観ている側の腹は一杯にならない。2度目になると莫迦にしだして、3度目はもう観にいかない」のである。結局、ほんとうに売れるためには、言葉にならない切実なものが入っていなくてはならない。

ビジネスにおける戦略ストーリーもこれとまったく同じだと思う。映画は観てもらってなんぼだし、商売も儲からなければ意味がない。しかし、やはりそれだけでは片づけられない何かがある。それは内面から湧き上がる「切実なもの」だ。それが結局はビジネスの原動力になる。

「切実なもの」、それはきわめて主観的なもので、「利益」とか「成長率」といった客観的な事象ではありえない。つまり、「良し悪し」ではなく「好き嫌い」の世界である。好き嫌いに中立で、良し悪しだけで出来ている戦略というのは、結局は長続きしない。

映画はやくざなり
[著]笠原和夫(新潮社)

すぐれた経営者と言われる人には、仕事の話をしていても、好き嫌いがバンバン伝わってくる人が多い。逆に、仕事の局面だと、何が好きで何が嫌いで何が楽しくて何がイヤなのか、さっぱりわからない「ツルっとした人」がいる。そういう人には優れた戦略ストーリーは創れない気がする。

会社の中でものを決めるときに、好き嫌いや個人の主観だけでは正当性を確保できない。だからどうしても期待収益率だとか、マーケットの伸びだとか、当社の強みにフィットしているとか、そういう良し悪しに頼らざるを得ない。だから、みんなが「正しいこと」をしようとして、良し悪しの物差しで意思決定しようとする。しかし、結局のところ、それだけではろくな戦略にならない。客観的に「いいこと」は、誰にとっても「いいこと」である。競合他社も例外ではない。客観的な良し悪を基準にすると、どんな会社の誰が考えてもだいたい同じ話になる。その結果、他社との違いをつくれず、完全競争になり、儲からない。

笠原の言う「体の内側から盛り上がってくる熱気と、そして心の奥底に沈んでいる黒い錘り」、これなしには本当に儲かるストーリーはできない。自分にとって切実なものは何か、理屈抜きの自分の血の騒ぎは何なのか、そういう自問自答が戦略ストーリーの起点にあり、終点になければならない。自分にとって「切実なもの」、それが戦略の原点であり、頂点である。

しかし、その切実な何かについては、笠原も本の中では言葉にしていない。こればっかりは、一人一人が自分の胸に聞いてみるしかない。

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