日本の「コンサルティング」は、ここから変わった

「プレジデント」1975年6月号に掲載された『企業参謀』最初の広告。

「日本の将来はキミが背負うんだ」

所長に赴任したばかりのハンシッカーからそう言われた。入社3年目くらいだったから最初は意味がわからなかった。どうやら日本にやってくる前、当時の社長アル・マクドナルドと話をして、「日本に事務所を残すとしたら、大前に任せよう」と決めていたらしい。

だから、ハンシッカーは他の事務所のメンバーに比べて圧倒的に私に時間を費やした。何かの提案をすると「それは非常にいいアイデアだ。キミがやってくれ」。向こうがどうしたらいいかと聞いてくるから、「こうすればいい」と答えると「じゃあ、やってくれ」。議論も仕事も、何でもかんでも私に振ってきて、サンドバック代わりに使った。

一方、仕事で海外に出るときには、必ずマッキンゼーの要人と会うように指示された。

「マッキンゼーの将来を担っているのは、ヘルムート・ハーゲマン(のちマッキンゼー国際アドバイザリー評議会)、ハーブ・ヘンツェラー)のちマッキンゼー・ヨーロッパ会長)、フレデリック・シーファー(のち独アリアンツ保険会長)、こういう連中だ。彼らと連絡を取って、昼飯でも一緒に食ってこい」

こんな調子である。先方にも「日本の有望株が行くから相手をしろ」と連絡を入れてくれていた。

たとえばドイツ・ミュンヘンのヘルムート・ハーゲマンを訪ねたときには、ホテルではなく、日本とはケタ違いの豪邸に泊めてもらった。世界中のマッキンゼーのリーダーと個人的に親しくなるのは大事なことで、彼らの世界標準の生活や考え方に接して学ぶことは多かったし、自分のネットワークも広がった。

こうしてハンシッカーからリーダー教育を施されているうちに、『企業参謀』が売れ始めて、東京事務所の業績は一気に伸びていく。気が付いてみたら、世界中で一番新規顧客を獲得しているのは東京事務所になっていた。

IBMやGMなど昔馴染みのお客さんから繰り返し繰り返し仕事を取るのがニューヨーク辺りの古狸コンサルタントの常道で、業界では新規顧客の導入は非常にポイントが高い。

入社3年目の若造が大変な勢いで名だたる日本企業をクライアントにしているということで、、アソシエイトを飛び越え、私をいきなり「パートナー(ディレクターやプリンシパルなどの上級職。マッキンゼーの運営メンバー)にせよ」という話が出てきたのである。

『企業参謀』の登場を境に、私の人生はもちろん、マッキンゼーという組織の運命も大きく変わった。もっと言えば、『企業参謀』のヒットがなければ、BCGやブーズ・アレンなどの外資系コンサルタント会社も今日のような形で日本に根付くことはなかっただろう。

『企業参謀』は日本におけるコンサルタントの職業観を根底から変えたのだ。

次回は「後輩が語る"マッキゼー・ジャパン、青春の日々"」。9月10日更新予定。

(小川 剛=インタビュー・構成)