「勝利の方程式」の逆をいく

今回取り上げる『Hot Pepper ミラクル・ストーリー』は、著者の平尾勇司さんがリクルート在籍時に構想し、実行した戦略ストーリーを振り返った書である。「ホットペッパー」の戦略ストーリーは不朽の名作、僕にいわせれば「戦略ストーリーの殿堂入り」の大傑作である。「戦略ストーリーって何?」と聞かれたら、即座に「ここに全部ある」と言える究極のケースだ。優れた戦略の条件がすべて詰まっている。その解読は僕にとって極上のワクワク経験だった。当然のことながら『ストーリーとしての競争戦略』でもかなり紙幅を割いて話しているので、興味のある方はそちらも合わせて読んでいただきたい。

Hot Pepper ミラクル・ストーリー
[著]平尾勇司(東洋経済新報社)

平尾さんは、1980年にリクルートに入社した。当時のリクルートは、就職から始まって、結婚、家探し……と、人生のビッグ・イベントにフォーカスしたコンテンツを主力商品としていた。『ホットペッパー』とは、ご存知のとおり、全国約50のエリア別に発行されている無料の情報誌である。平尾さんのつくり上げたホットペッパー事業は、従来のイベントにフォーカスしたリクルートの事業ドメインを日常的なコンテンツにまで拡張する突破口となった。

出発点にあったのは、平尾さんのユニークな洞察だった。「関東市場」とか「東京市場」などというものは存在しない、というのである。平尾さんが着目したのは、消費生活における「生活圏」の重要性である。人間の消費の実に8割は半径2キロの生活圏で行われている。これだけ交通や通信のインフラが発達しても、人間の行動はそれほど非連続に変わるものではない。僕もそうだが、だいたい半径2キロの生活圏で日常的な買い物をし、スーパーに行き、蕎麦屋へ行き、床屋に行っているものだ(僕は頭髪の体質的に床屋に行く必要がそもそもないので、自宅でバリカンで刈ってますが)。

だから、「東京市場」と一括りにしてしまうと、とたんに消費の8割が見えなくなってしまう。「東京」というのは銀座、上野、新宿、渋谷、赤坂……と細かく分かれた生活圏の集計にすぎない。衣食住遊働に関わる消費の8割が生活圏で完結しているのであれば、リアルに存在している消費市場は、「東京」ではなくて「渋谷・恵比寿」という市場なのだ。それとまったく異なる市場として「新宿」がある。このことに気づいた平尾さんは、半径2キロの生活圏に限って、生活情報を提供するメディアを思いついた。それが「ホットペッパー」である。

ホットペッパー事業の前身として、リクルートには『サンロクマル(360°)』という雑誌があった。サンロクマル事業のコンセプトは「広告付き電話帳」だった。特定エリアの領域情報をすべて掲載するという意味である。ところが、サンロクマルは創刊から7年たっても一向に黒字化できないお荷物事業となっていた。戦略不在の目標先行。これがサンロクマルの失敗の原因だった。「広告付き電話帳」というコンセプトでは、「誰に対して本当のところ何を売るのか」、顧客に対して届けるべき価値が見えなかった。そこから始まる戦略ストーリーにも一貫性がなかった。地域ごとの版は各版元長に任され、家業的に運営されていた。版元長が変わるたびに方針も変わった。明確な売り上げ目標は設定されていたが、サンロクマルはまるで「台本のない芝居を役者が演じているよう」な状態にあった。

この迷走事業の事業部長をいきなり任された平尾さんがまず手をつけたのは、「広告付き電話帳」というコンセプトの再定義である。ホットペッパーのコンセプトは「狭域情報ビジネス」とされた。見たままでいえばホットペッパーもサンロクマルと同じ雑誌メディアのビジネスであり、「フリーペーパー」である。しかし、その本質は「特定の狭い地域に限定された消費情報を、今までにない形で流通させ、その地域の消費を喚起する」ことにあるとされた。ひいては「地元の消費を活性化し、地域を元気にする」がホットペッパーの目的とされた。「狭域情報ビジネス」は大義をとらえた志の高いコンセプトであった。

しかもこのコンセプトはそれまでのリクルートの「勝利の方程式」のことごとく逆を行くものだった。当時のリクルートで王道とされていたのは、大都市に広域巨大メディアをつくり、大量の広告ページを捌きつつ、媒体としての価値を高め、収益を上げていくという巨艦型のモデルだった。必然的に高原価、高経費、高人件費構造となる。その上で、高いコストを上回る価格で広告が売れることを目指す戦略である。しかし、このストーリーには限界も見えてきていた。

そこで平尾さんが目をつけた「生活圏」は、リクルートの限界を突破するのにまたとない着想だった。地域ごとに数多くのバージョンを出す。しかし、その背後ではひとつの戦略ストーリーが動いている。共通のストーリーに乗せて、複数のバージョンを展開していく。当時のリクルートのロジックでいえば、狭域情報を扱う商売は非効率以外の何物でもなかった。しかし、そこに新しい戦略ストーリーを持ち込めば、狭域情報が高収益額・高収益率のビジネスになると考えた。ホットペッパーの戦略ストーリーは、戦略不在で「家業」の集合体にとどまっていたサンロクマルを、リクルートの新しい柱となるような「事業」へと転換しようとするものだった。