「知識自慢大会」が膠着状態を生む

世の中には、その道の専門家が数えきれないほどいます。科学研究分野における最先端の研究発表であればいざ知らず、一般に、ビジネスや公共政策の分野において「いわゆる有識者」たちが、金科玉条や世紀の大発見かのごとく振りかざす論理や主張など、それを振りかざしている本人が無知なだけで、実は先人たちによって様々な観点から議論が戦わされていることが殆どです。我々は、まずこの前提を謙虚に受け入れなければなりません。

そもそも、(1)データやファクトに基づいてロジカルに考えれば採りうるオプションが抽出でき、(2)データやファクトに基づいてロジカルに考えれば採るべきオプションが評価できる程度の課題など、課題とすら呼べないものです。演繹的であれ、帰納的であれ、結論が論理的に導ける程度の簡単な課題であれば、先人たちによって既に解決策は導き出されていて然るべきですし、その解決策は実行に移されていて然るべきなのです。換言すれば、データとファクトとロジックだけでは答えが一つに収束しえないからこそ意見は対立するのであり、変革の現場で我々が対峙しなければならない課題は、そのような難しさを「必然的に」抱えているのです。企業の課題しかり、国家の課題しかり、です。

しかしながら現実社会に目を向けると、「いわゆる有識者」ほど、データとファクトとロジックで持論の正当性を証明しようとします。相手を論破しようとします。データとファクトとロジックで持論の正当性を証明することが、有識者たる自分の存在を誇示し、社会的地位を高めることになる、とでも勘違いしているのでしょうか。意見対立する有識者双方が持論に固執し、持論に都合のいいデータとファクトだけを取り上げ、さもロジカルに語っている様を見聞きするにつけ、私はいつも残念な気持ちになります。結論の正当性を証明しきることが難しい課題であるからこそ意見が対立しているにも関わらず、相手を論破し、持論の正当性を証明すること自体が目的になってしまうのです。「議論を通じ、合意点を創り出し、それをもって素早く行動に移す」という大目的は忘れ去られ、知識自慢大会、頭の良さ比べ(実は、悪さ比べですね)を繰り返します。「必然的に」事態は膠着状態に陥るのですから迷惑な話です。昨今の原子力発電所再稼働問題など、その典型でしょう。