当初は疑問視する声もあったが、やり通す。44歳。不惑を過ぎ、他人の声や視線など気にしない。そんな親分肌の姿に、日本人の部下が「番長」と名付けた。食事会には、ときに自分も参加した。なるべく、口を挟まない。妙な意見が出ても、押さえつけない。皆が何を感じているのかを受け止めるため、話を最後まで聴く習慣が身についていく。

設計も、建設工事も、軌道に乗った。でも、時々で、現場では問題が起きる。当然だ。心はかなり溶け合っても、文化までは融合しない。そんなとき、格別の相談相手がいた。発注者側の技術マネジャーで、のちに国営石油公社の総裁になるアリ・スマルノさんだ。波長が合い、「こんな問題が出たが、どうしたらいい?」と尋ねると、助言をくれた。現場のインドネシア人たちに通じていて、「みていると、あの組織ではあいつが力を持っている。あいつの攻め方は、こうだ」と教えてくれる。

ある言葉も教わった。「ムシャワラ」だ。現地の言葉で「話し合う」とか「徹底討議する」を意味する。アリさんは、ムシャワラを会議に先立ってやるように勧めた。日本で言えば「根回し」か。これまた、相手の話をよく聴くことにつながる。

「無聽之以耳、而聽之以心」(之を聴くに耳を以てすることなくして、之を聴くに心を以てせよ)――物事は、耳で聴くのではなく心で聴け、との意味で、人の言葉は物理的に聴くだけではダメで、心で聴かねば本当の意味はわからないと説く。世俗的なことから超越して生きることを説いた中国の古典『荘子』にあり、孔子の言葉として納めている。ジャカルタには87年7月から7年9カ月、在任した。その間に生み出した久保田流の溶け合い術も、ムシャワラの尊重も、この教えに重なる。

1946年11月、茨城県八郷町(現・石岡市八郷地区)で生まれ、高校は土浦市までバスで通う。東北大学工学部では、化学工学科で学んだ。当時、大学にいた化学工学の大御所が千代化の創業者である玉置明善氏と友人で、玉置氏が年に一度、特別講義にやってきた。それを3年生のときに聞く。ナフサを超高熱で分解して塩化ビニールをつくる国産技術を、化学会社とともに開発した話で、感動したことを忘れない。

その後、実習や見学で全国の製油所やコンビナートを訪ねると、いくつかの礎石に「設計・施工 千代田化工建設」とあった。銀色に輝くプラント群をみながら玉置氏の話を思い出し、「化学品をつくるより、こういうプラントをつくるほうが面白そうだ」と頷き、就職先に選ぶ。