入社3年目で
製造現場の業務フローを動かす

「アンタ変わってるね」

入社面接のとき、私はある役員の方からそう言われました。当時のキリンビールはシェアが60%以上。世の中の多くの人は「キリンは安泰」と考えていましたが、私に安定志向がまったくなく、キリンへの志望動機が「多角化された事業をやっている」だったからです。

キリンビール社長 磯崎功典 いそざき・よしのり●1953年、神奈川県生まれ。小田原高校、慶應義塾大学経済学部卒。77年キリンビール(現キリンHD)に入社。88年米コーネル大学ホテルスクール留学。99年キリンホテル開発運営の「ホップインアミング」総支配人、2004年比サンミゲル取締役、07年経営企画部長などを経て、10年キリンHD常務就任。12年3月より現職。

シェアが高すぎたキリンは企業分割の脅威にさらされていたため多角化に取り組み、乳製品の小岩井乳業、トマトジュースのナガノトマト、洋酒のキリン・シーグラムなど、いろいろなことをやっていました。そういうところに入ればベテランの人があまりいませんから、私のような若造でもやりたいようにやらせてくれるだろうと考えていたのです。

私の希望が伝わっていたのでしょう、入社して神戸に赴くと「特販課」という部署に配属されました。特販課とは要するにイレギュラーなところ、具体的には量販店での販売を担当する部署でした。当時、ビールは酒屋さんでの販売が圧倒的で、量販店はまったくビールを扱っていない店も数多くあり、そこでは乳製品やトマトジュースなどを売りました。

この部署ではさまざまな売り方に取り組みました。たとえば小岩井の6ピースチーズ。試食販売をするとお客様の評判は非常にいいのですが、「ちょっと高いね……」。ならばバラ売りにすればお客様が買いやすくなると考えたのですが、バラのチーズには製造工場も日付も書かれていないため販売できませんでした。

そこで本社にかけあって日付と工場名を入れてもらい、スーパーに持ちかけたところ「アイデアはいい。しかし誰が一個一個ラベルを貼るんだ?」と。当時はまだバーコードがなく、ラベルを一つひとつの商品に貼る必要があったのです。

私は再び考え、岡山工場には多少暇な時期があり手伝える人もいると聞いたので工場にお願いし、チーズ一つひとつにラベルを貼ってから量販店に出荷することにしました。結果、そのスーパーではおそらく全国で一番チーズが売れたと記憶しています。入社3年目のことです。