とにかく東京で働きたかった

――なるほどね。ここで、ちょっと前にさかのぼって、パパ料理に目覚める前のこと、学生時代のことを教えてもらえますか。

実は就職活動では相当落ちまくりまして、かなり苦労をしました。そもそも世の中にどんな仕事があるのかを知らなかったですね。就職活動ではじめて「電博」という言葉を聞いたぐらいのレベルです。

そんな中でも「人」に興味があったので、今のパソナなど人材派遣、人材紹介などの入社試験を受けはじめ、そのうちに人材系の新卒採用の会社群に出会い、就職活動そのものに関心を持ち始めました。

その後、UPU(のちに現ウィルソンラーニングワールドワイド社へ事業譲渡)という人材採用の会社に入ります。社長を選挙で選ぶ経営民主主義を掲げているなど、なかなか面白い会社でした。苦労した就職活動を経て1年目の配属は大阪だったのですが、とにかく東京にいきたかった。その理由は、学生時代、関西弁で東京にいるとよくモテたから(笑)。

――そんなもんですよね(笑)。

はい。ミーハーだけれど、東京で働きたかった。もちろんモテたいだけが目的ではありません。旅先でなんだか興奮して勝手に目が覚めることってありますよね。こんな経験から「非日常空間が自分を覚醒させる」と思っていました。

そこでふと自分の置かれている環境に立ち返ってみると、大学時代までずっと同じ場所で生活していました。30分バイクで走ればどこにたどりつくのか、目をつぶっていてもイメージできる環境。

――予定調和の世界だったと。

そう。それがとんでもなく退屈に思えてきて。だから、わくわくした非日常空間がほしくて東京に身を置きたいと思った。東京というと、当時の僕にとっては、泊まっているところから朝起きて隣の駅で降りるだけで旅行。首都高速の看板を見るだけでも興奮するくらいの場所でした。

けれどはじめの配属は大阪。残念でした。そこで、1年経って次年度の組織変更があるタイミングで飲みにいっては、上司に話をして東京にいきたいという思いを伝えました。コツコツコツコツと。さらに東京の同期にも連絡をし、誰に相談したらいいのかと聞きまわって、東京本社にいるマネージャーの方に電話をして、「東京にいきたいけれど、どうすればいいのか」と相談までしていました。

そうしているうちに支社長面談の機会を得て、いろいろと説教をされました。いったい何をやっていきたいのかと。そこでは「外部の人脈をつくれ、自分の頭で考えろ、行動しろ」それさえしていれば、どこで働いても一緒だと説かれました。

けれど、思いが通じたのか、「お前がそれらをしっかりやるなら、東京にいってくるか」と機会をいただくことができました。その後、東京本社で試行錯誤している間に、その後のキャリアにつながる、デジタルハリウッドの社長となる人に出会うことになります。

――その頃デジハリはまだなかった?

1994年10月にデジハリができたんですが、その頃、僕はまだUPUに籍を置いたまま週末デジハリの活動のお手伝いをしていました。翌年1995年2月に正式にメンバーに加わりました。

――想いが通じてやっと東京に出てきた。UPUのほうもこれからですよね。そんなときに、立ち上げたばかりでどうなるか分からないところに何で飛び込めたんですかね。何に魅かれたのでしょう。

デジタルハリウッドの仕事は21世紀で求められる新しいコンテンツ産業を支えるための、新しい人材を輩出し、新しい働き方、新しい職種を生み出す仕事だと感じていました。そこに魅力がありましたね。ヒトの働き方に興味をもってUPUに入っていたので、そこにはある意味連続性があります。

――志としては前職から一貫していたと。

そうですね。もともと僕はコンピュータやデジタルなものが好きというわけではまったくなかったのです。