MIT留学時代の大前さんは、ニューヨーク在住の姉・伶子さんのもとを毎月のように訪ね、おなかいっぱいになって帰っていったという。日本では「出来過ぎる、小憎たらしい弟」だったが、MITでは必死に勉強していた。伶子さんが語る「弟・大前研一の青春時代」。

人の心は胃を通す

私と研一が暮らしていた1960年代末のアメリカはベトナム戦争たけなわで、社会全体に厭戦気分が広がっていました。ニューヨークもボストンもすごく荒んでいた。

そういう時代に海の向こうからやってきたジャパニーズがどういうポジションだったか。私たちが言ってはいけない言葉の一つですが、下手をすれば「JAP」です。

娘を近所の学校に通わせていると、「数年しか税金を払っていないくせに、みんなの税金で成り立っているパブリックスクールに子供を入れて……」という目で周囲から見られて、「みんなのおやつを持ってこい」だの「クッキーを焼いてこい」だのと、しょっちゅう言われました。

ボストンで孤軍奮闘していた研一にも言いしれぬ苦労があったと思います。愚痴や弱音こそこぼしませんが、「姉ちゃんは家族で来ているんだから贅沢言うな」と叱られたことが何度かありました。

研一が留学して1年後にドクターの試験を受けたのは、最短卒業のレコードが欲しかったのかもしれませんが、早く日本に帰りたいという気持ちもあったのだと思います。

間近で様子を見ていましたが、試験に落とされたことで、逆に吹っ切れたように感じました。もういいんだ、のんびりやるんだと肩の力を抜いて、アメリカでの生活を楽しむような雰囲気が出てきた。

ボストンからニューヨークまで400kmの距離があります。研一はほとんど毎月のようにクルマで私たちのアパートに遊びに来ていました。

サンクスギビング(感謝祭 アメリカでは11月の第4木曜日)やクリスマス、お正月などは一緒に過ごしましたし、実験で放射能を浴びすぎて線量オーバーで研究室に入れてもらえないときにも、「姉ちゃん、行ってもいい?」と電話がかかってきました。

1人で来るのはもったいないからと、学校の掲示板でニューヨークまでの同乗者を募ったりして3、4人でやってきます。音楽家、バレエダンサー、いろいろな人を連れてきてはゲストルームに泊める。さながら我が家は下宿屋でした。MITのルームメイトだった秋葉忠利(前広島市長)さんやヴァイオリニストの水野郁子さんがいらっしゃったこともありました。

研一がやってきたときには、私も腕によりをかけて料理を振舞います。ありがたいことに夫も「旨いもの、食わせてやれよ」という人でした。

もちろん食べさせるのは日本食。肉が大好きだから、ヒレ肉を1本買い込んで、「何センチ?」と聞いて食べたいだけ切り落とす。それをコロコロ焼いてポン酢で食べさせました。

私がニューヨークにいたおかげで、研一も随分助かったと思います。毎回、たらふく食べさせて、クルマはガソリンを満タンにして、お土産付きで送り出すんですから。冬場には3日ぐらいは食べられるように、おいなりさんやちらし寿司をギッシリ詰め込んだ重箱を風呂敷に包んで持たせました。

「人の心は胃を通す」

私の大好きな言葉です。

日本にいた頃、昼間はクラリネットを吹いてばかりいる研一が勉強するのはもっぱら夜でした。今日は雑炊、明日は焼きうどんという感じで、母親は夜毎に夜食をこしらえて、せっせと差し入れしていた。

随分大人になってから「私に夜食を作ったことは一度もないわよね、お母さん」と尋ねたら、「あなた、夜食作るほど勉強したっけ?」と逆襲されました。今でも健在な母親と研一の親子の情愛は、子供時分からの母の手料理によって培われた部分が大きいと私は思っています。

ボストンに戻った研一からは「先日はごちそうさま。盗賊もどきが何人も押しかけて申し訳ない」という手紙がよく届きました。私と研一の関係も、食を通じて心が通い合う部分が少なからずあったようです。