「誰が言った」ではなく「何を言ったか」

オグルビー先生はときどき試すように「ケン、キミはどう思う?」と質問をしてきた。

「電子顕微鏡で電子を見るにはどうしたらいいだろう?」などという哲学的な問題も吹っ掛けてくるから、即答は難しい。しかし「ちょっと図書館に調べに行ってきます」なんて言おうものなら、チョークが飛んでくる。

「我々2人でこの問題を証明できなかったら、世界中で誰が解決するんだ? 図書館に答なんかない」

オグルビー先生はいつもこう言った。2人で徹底的に議論して、分かっていることは何か、最終的に証明しなければならないことは何か、黒板に書き出していく。証明方法や実験装置を考え出して、それを論文にして提出する段になるとまた怒られた。

「論文を提出する前に同じことをやったヤツがいないかどうか調べてこい。同じような論文を出したらキミもMITも恥をかく」

図書館に調べに行くのは一番最後。最初から調べに行ったら、思考空間が狭まってしまう——。オリジナルな発想の大切さ、「誰が言ったか」でなく「何を言ったか」で判断するカルチャーというものを徹底的に仕込まれた。後々、畑違いのコンサルタントの世界に入っても気後れせず、思いっきり仕事ができたのは、このときの訓練のおかげだと思っている。

MITの教授には変わり者が多かったが、皆、生意気盛りの若い人間を伸ばすことに長けていた。学生から本当の力を引き出すようなマジックハンドの持ち主だった。

オグルビー先生も「ヨットで世界一周するにはどのルートがいいか」という命題を実証するために、自分でヨットに乗って海に出る(結局、ニュージーランド沖で難破して飛行機で帰ってきた)ぶっ飛んだ先生だったが、どういうわけか私を気に入ってくれた。私を対等のディスカッションパートナーとして扱ってくれて、思考法から人生論まで公私ともに大いに啓発された。

最後には自分の後釜の助教授になれとまで言ってくれた。自分は日本で原子炉をやりたいからと丁重にお断りしたが、その後も日本、それも日立まで追いかけてきて、「MIT に戻って来い」と説得された。この時も1カ月余りにわたって滞在したので、昔取った杵柄で各地をガイドさせてもらった。あらゆる面で最高の先生だった。

卒業後は日本を発つときに約束した通り、東工大の研究室に戻るつもりでいた。しかし、研究室の助教授がわざわざMITまで来てくれて、「もう1年、こっちにいてくれ」という。理由を尋ねると、学園紛争で学校が閉鎖されているとのこと。「卒論指導も自宅でやっているんだ」という説明を聞いて私は他の道を探し始めた。

結局、卒業後の3カ月はオグルビー教授の論文作成の手伝いをしながら、MITの講師(Lecturer)をしていた。その間、クラスメートの日系ブラジル人フカイさんから、「ブラジルで原子力開発をやるからきてくれないか」と誘われたこともある。当時の金額で月給1000ドル(36万円)のオファーは魅力的だった。しかし、付き合っていたカミさんから「高校3年の夏休みにホームステイで行ったことがあるけど混乱の極み。ひどい国だった。やめたほうがいい」と頑強に反対された。あとでよくよく聞けば、彼女はアルゼンチンとブラジルを完全に混同していたのだが。

そうこうするうちにMITに派遣されてきていた日立の研究者の紹介で、本社の人事部長にボストンで会った。港のそばのPIER4と呼ばれる学生では行けないようなロブスターの店で夕食を食べながら熱心に誘われて、行くことに決めた。日本もいよいよ原子炉を自力開発するので是非来てくれ、ということでオグルビー教授の誘ってくれたMITにも残らず、フカイさんの魅力的なオファーがあったブラジルにも行かず、日本の原子力開発に参画するぞ! と気合いを入れて日立に行くことになってしまった。東工大の研究室に筋を通して1年待てなかったことを詫びると、向こうもそれなりに喜んでくれた。

こうして1970年8月、炉心設計のエンジニアとして日立で働くことになった。 

次回は「MIT時代の弟・研一」 4月9日更新予定。

(小川 剛=インタビュー・構成)