われわれ「恥の文化圏」に住む人間にとって、誤りを認めるくらい口惜しいことはない。だから逆にわれわれは誤りと同居し、誤りを永続させることになりやすい環境に住んでいることになる。アメリカなどに行ってきた人が、あちらでは責任が明確に決まっており意思決定が行われやすいといって、日本でもそうすべきだというように提唱するのをよく耳にする。しかし、何百年来の習性そのものをすぐに変えようとするのは、どだい無理なことではなかろうか。むしろ解法としては、そうした習性の極限が問いつめられなくてもすむように、やり方そのものを変えてみるほうが、易しいのではなかろうか。すなわち、決定(デシジョン)において、個人や特定職制の判断に委ねる部分をきわめて小さくしてしまうことである。このためには、勘で議論を進める部分を少なくし、できるだけ事実に基づいた討議ができるよう、データの収集と分析の腕を磨くことが第一である。