「日本人は思考停止に陥っているのではないか」。今年3月に急逝した作家の宮崎学さんは、繰り返しそう主張していた。言論誌『月刊日本』での宮崎さんの連載をまとめた遺作『突破者の遺言』(K&Kプレス)から、一部を紹介する――。

※本稿は、宮崎学『突破者の遺言』(K&Kプレス)の一部を再編集したものです。

広島の原爆ドーム
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「日本人」という自我(2016年5月)

我が国の閉塞へいそく状況は論を俟つまでもない。その根本理由は、我々が思考停止に陥っていることにあるのではないか。冷戦後四半世紀が経ち、世界は再び動乱の時代を迎えているが、日本だけは相変わらず「対米追従」という国是を盲信している。だが、そろそろ乳離れすべきだろう。

本来ならば冷戦終結を転機とすべきだった。そこで日本は思考停止状態のまま、「アメリカ」という選択肢を選んだ。いや、決断を伴わない以上、それは選択ですらなかった。単なる惰性、現状維持にすぎなかった。我々は改めて我が国の針路について思考、決断、選択をし直さなければならない。

その上で私は対米従属でも社会主義でもなく超国家主義でもない、日本独自の道があるはずだと考えている。その可能性を模索する手がかりの一つは、アジアである。

特にベトナム戦争を再考する必要がある。ベトナム戦争は資本主義対社会主義の冷戦、欧米帝国主義対ナショナリズムの独立戦争という二面性を持っていた。それゆえ日本は自己矛盾を突きつけられた。ベトナムの勝利は、日本にとって西側の盟主が敗北した望ましくない結果だったのか、それともアジアの友邦が独立した望ましい結果だったのかと。

中国もアメリカも敵に回した日本の矛盾

だが、この自己矛盾は戦後に始まったものではない。明治維新以来、日本は常にこの自己矛盾に直面してきたのである。我々は近代的な意味での「日本人」という自我を問わなければならない。

自我は他者と出会って生まれるものだ。現在の「日本人」という自我は、ペリー来航に端を発していると言っていい。だが、国際情勢の要請とはいえ、我々はあまりにも性急に「日本人」という自我を形成しすぎたのではないか。つまり、我々は「日本人」という自我を形成強化するために、他者として敵を求めすぎてしまったのではないか。

明治維新は「アジアの帝国主義」を目指した。これは一個の矛盾逆説である、アジアが植民地を意味し、帝国主義が欧米を意味する当時においては。日本の自己矛盾はここに起源を持つように思われる。

日本は「名誉白人」として列強と競合しながら朝鮮を植民地化し中国を侵略した。それと同時に「アジアの盟主」として米英に反旗を翻し「大東亜戦争」を戦った。日本の敵は中国とアメリカだった。言い換えれば、「日本人」とは中国に(敵)対する自我であり、アメリカに(敵)対する自我だった。