「日本式の自分を変えるしかない」

「危険な人間」という言葉が効いて、勉強をやり直そうと決意した。たとえるなら「そのフォームではすぐに肩を壊すぞ」とコーチにアドバイスされた野球のピッチャーみたいなものである。投げ方を変えなければ、どこかで必ず大きな壁に突き当たる。

そう思って自己改造に励んだ。すぐに答えを求めようとする日本式の思考法は一度全部捨てて、考え方の道筋、論理的思考を徹底的に鍛えた。人と積極的に議論を交わすことで、ピカピカになるまでロジックを磨いた。

人生を変えた最大の教訓は何かと問われれば、間違いなくこの一件だと答える。MITでドクターの試験に落としてもらわなければ、自分の発想を革めることはなかった。経営に関してズブの素人がコンサルタントの世界に飛び込んで、あれやこれやと企業戦略やコンセプトをひねり出すこともなかったろう。

昨年10月に福島第一原発の事故調査報告書を政府に提出、ネットにも公開(http://pr.bbt757.com/)したが、事故の道筋を見つけ出して、詳細な再発防止策を提示できたのは、MITでの学びが原点にあるからだ。40年間も原子炉の世界を離れていたが、基本的な考え方は錆びていなかった。知識ではなく原理原則で福島の分析は完全に出来た。知識は消滅してしまっていても、筋道を追って原子炉の安全設計を紐解いていけば、事故がなぜ起きたのか、どうすれば再発防止が出きるのか、を探り当てることもそれほど困難ではなかった。

自分を変えるというのは言うほど簡単ではない。しかし、卒業するためには自分を変えるしかないと腹を括った。ドクター試験に2回落ちるとMITから追い出されるのだ。

1970(昭和45)年6月、原子力工学博士号を取得し、大前さんはMITを卒業した。(写真は大前さん提供)

携帯電話も格安航空チケットもない時代である。在学中3年間、実家に電話をかけたことはなかったし、飛行機に乗って簡単に帰るわけにもいかなかった。水杯に片道切符で日本を飛び出したようなものである。もう一度ドクター試験に失敗したら、キャンパスの横を流れるチャールズ川に身を投げるしかない。それくらいの覚悟はあった。現に学友の何人かはそこで自殺した。

1年後、再びドクターの試験を受けて、今度は合格した。同じ年に論文も書き上げて、3年目の6月に卒業した。つまり、2年9ヶ月でMITを卒業したことになる。ドクターの場合、5年はかかるのが普通だ。2年と9ヶ月で卒業したのはクラスメート130人中、私1人で、当時原子力工学科のレコードだった。

卒業してから何年かして、当時の学部長マンソン・ベネディクト教授が来日したときに、「お前はのさばっていたから、もっと長くいたような気がしていた。そんなに短期間で卒業するなんてとんでもない。知っていればあと1年は延ばしたのに(笑)」とからかわれた。

次回は「図書館に答なんかない」 4月2日更新予定。
 

(小川 剛=インタビュー・構成)