何年か前から、「幕末」ブームが続いている。近年の日本の危機を、江戸時代末期のそれに喩える論調もあちらこちらで見られる。

ペリー提督が乗ってやってきて、日本に開国を迫った「黒船」は、今で言えばインターネットやグローバル化といった文明の波。変化を余儀なくさせるさまざまな事象が押し寄せてくる今、明治維新の成功に学びたいという私たちの願いは切実である。

維新の志士たちは、どうして世界史でも希に見る改革に成功したのか。一つの鍵は、当時の日本社会の「多様性」の中にあると私は考える。

当時、幕府は江戸にあったが、同時に、地方には「藩」があって、独自の経済や文化を誇っていた。何よりも、人々の第一の「忠誠」の対象は、江戸幕府よりもむしろそれぞれの藩主であった。

今の日本では、文化が東京に一極集中しているという実態、ないしは「思い込み」があるが、江戸時代の日本ではそうではなかった。すぐれた知識人は、むしろ地方にいたのである。本居宣長のような人が松阪にいて、後世に残るような仕事をした。

「藩校」や「私塾」では、当時の最先端の学問が教授されていた。吉田松陰が松下村塾で、あるいは緒方洪庵が適塾で講じたように、それぞれの地方にプライドある学問の場があった。「一流」の文化に接するために、大都市に出なければいけないというようなことはなかったのである。

日本という国の中に、多極的な文化の核が分散していたことが、明治維新への原動力となった。もし、現代の日本のように、「江戸」=「東京」に一極集中しているのが当時の実情だったらと思うと、ぞっとする。

黒船が来ても、江戸幕府の危機感は必ずしも高くはなかった。一方、薩摩や長州の人たちは、薩英戦争や下関戦争を通して、西洋列強の実力を直接知っていた。結果として、薩摩や長州が中心となって維新へと動くことになったが、それができたのも、江戸とは異なる独自の「力」をたくわえていたからである。