クラスメートは原潜乗員

その後どういうわけか、英語力を証明するために今で言うGMAT(欧米のビジネススクール入学希望者を対象にした適正検査)みたいなものを受けろという指示があったが、「通訳案内業の国家資格を持っている。日本政府のお墨付きだ」と切り返すと、「それなら受けなくていい」という手紙が来た。

以上、英文のやり取りだけで話が転がって、MIT行きが決まった。東工大の先生からは「(4人しか入れない)ドクターコースに入れてやったのに……」とボヤかれた。ドクターコースからそのまま教授になる道もあったが、後ろ髪は全然引かれなかった。研究室の仲間が一席設けてくれた送別会で「必ず帰ってきます」と殊勝な挨拶をして、日本を発った。

アメリカ初上陸で感じた(片道6車線もある高速道路などの)圧倒的なスケール感。それはMITの門をくぐっても減じることはなかった。最初に驚かされたのは、東工大の大学院では13人しかいなかったクラスメートが世界中から130人も来ていたことだ。

そのうちの半分以上は海軍将校で、原子力潜水艦で海中生活を経験しているツワモノばかりだった。原潜は一度潜ると18カ月ぐらい浮上しない。クルーは密閉空間で原子炉と向き合い、来る日も来る日もオペレーションの訓練を繰り返すのだ。

成績優秀な将校がMITに派遣されてくる。彼らは手を突っ込めるくらいに原子炉のことをよく知っていた。日本では型通りにしか教わらなかった理論や方程式に具体的な数字を当てはめて、目の前に原子炉が見えているかのようにインチやポンドで表現する。

アメリカ人はプラグマチックだと聞いていたが、自らの経験に照らしてリアルな数字を駆使するクラスメートと接して、日本の学問とは完全に別物だと感じた。こっちには照らすべき経験がない。

しかし私にはあって、彼らにはない経験が1つだけあった。計6年間のガイド業である。30人の団体客を1分間で所定の列車に押し込むようなオペレーションはお手のモノだ。

最初にクラス委員を決めようという話になって、130人でゴチャゴチャ議論をしているときに交通整理を買って出た。「お、それはグッドアイデア」という具合に議論がスムースに進行、クラスでただ1人の日本人はいつの間にはクラス委員に収まっていた。

ところで生活費に関しては一悶着あった。私の採用を決めて奨学金まで出すと言ってくれたローズ先生は、私を原子炉ではなくなんとか核融合の研究に引きずり込もうとしたが、私は日本のエネルギー問題の解決には原子炉がまず先だ、と言う考えがあったので、彼のリサーチアシスタントになることを固辞した。

先生はこれを快諾してくれたが、他にスポンサーを見つけなくてはいけない。探しているうちにアメリカ海軍の研究所(Naval Research Laboratory)で1963年に沈没した米原潜スレッシャー号の事故を調査研究していたトーマス・ジーボルト先生に巡り合い、彼のリサーチアシスタントにしてもらった。その研究資金から私の授業料と生活費を出してくれることになったのだ。

(小川 剛=インタビュー・構成)