江戸幕府11代将軍の徳川家斉は、多くの側室を持ち54人の子を産ませている。歴史研究家の河合敦さんは「大奥には約1500人を囲い、『歴代将軍で最も好色だった』といわれている。しかし、そこまで子をもうけたのには、別の狙いがあったようだ」という――。

※本稿は、河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

11代将軍・家斉の父は徳川吉宗の孫、母は大奥の奥女中

11代将軍・徳川家斉は、御三卿の一橋家から徳川宗家を継いだ人物である。9歳のときに10代将軍・家治の養子となり、15歳で将軍の地位についた。

 徳川家斉像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
徳川家斉像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons

その実父は、吉宗の孫・一橋治済、母は岩本正利の娘・お富の方で、彼女は治済の側室である。岩本氏は吉宗の時代に紀伊藩士から幕臣に取り立てられた家柄で、お富の方は大奥の奥女中だったが、治済が見初めて将軍・家治に頼んで自身の側室にしたといわれる。

家斉の誕生については、奇瑞きずいが報告されている。一橋邸の御産小屋で生まれるとき、にわかに室内が明るく照らされ、鶴が屋上を悠々と舞い、やがて庭に降り立ったというのだ。人びとは「なんとめでたいことだろう」といい合ったが、のちに将軍になったというので、「なるほどやはり」と納得したそうだ。

しかし、偉人の生誕によく付会される吉兆のたぐいであり、もちろん史実とは思えない。

頻繁に宴会を開く酒好きの将軍

家斉は酒宴が好きで、「雪月花の折々又五節(五節句)などには御宴をひらかれ。近習の人人召つどへて。折ふしの興を催し給ふ」(『徳川実紀』)とあるように、頻繁に宴会を開いていた。

壮年までは浴びるように酒を飲んでいたが、ほとんど酔うことはなかったといい、晩年は3献以上を飲まないようにしていたともいう。

ともあれ、宴会好きで女好きという自堕落な印象があるものの、毎朝早く起き、かなり規則正しい生活を送っている。