日本のエレクトロニクス全盛の80年代、DRAM(半導体メモリの一種)が最先端だった時代には、半導体シェアの世界トップ10に日本のメーカーが5つも入っていて、デジタル化に先鞭を付けるのは日本の技術という自負もあった。ところが本格的なデジタル時代が到来した今日、表舞台に日本のメーカーは見当たらない。舞台裏で部品や自動化機械をつくって成功している会社はあるが、主役級の存在感を示しているメーカーはいない。いわば“デジタル敗戦”という状況なのだ。

どうしてこうなったかといえば、日本のメーカーがデジタル化の本質というものを理解していなかったからだ。

アナログとデジタルの本質的な違いとは何か。一言で言えば、連続的に物理量を表すのがアナログであり、不連続(離散)的に物理量を表すのがデジタルである。時計でたとえるとわかりやすい。時間の経過を連続的な針の動きで表すのがアナログ時計。一方、0、1、2……というように時間を数字で表示するのがデジタル時計だ。デジタル時計に0.5秒とか1.8秒という中間の時間表示はない。

連続的な物理量を追い求めるアナログ仕事では、経験値や習熟度が断然ものをいう。カメラのレンズを研磨するような工程では、手先の器用さや経験の差で出来栄えが違ってくる。日本の職人がつくったアナログ回路などは芸術品に等しかった。レンズの設計は今でもアナログコンピュータも使う。

しかし、デジタル化された仕事に経験や習熟は必要ない。設計図が同じならAさんがつくったデジタル部品もBさんがつくったデジタル部品も同じ。経験や習熟などのエキスパート部分もすべてデジタル設計の中に組み込まれているから、出来栄えが差別化できない。そこがデジタル化の恐ろしさ。あらゆるものが汎用化されてしまうのだ。

デジタル時代は、誰かが開発した部品を中国かどこかで安くつくったメーカーが勝つ。職人的な技術力が強みであると信じて疑わなかった日本企業はそこに気付くのが決定的に遅れた。

さらにまずかったのは、人手不足の解消を狙った日本のメーカーが匠の技術をコンピュータに取り込んで、習熟を要しない製造装置や工作機械を開発して、世界中に売りまくったことだ。

たとえば、半導体や部品をプリント基板の上に実装するインサーションマシンは、ラインに置かれた部品を次々と基板に自動装填して完成品が吐き出されてくる。人力がかかるのは自動装填できない15%程度のアナログ部分と当初のプログラミングだけ。習熟した職工など必要ない。

今、中国の広東省珠江デルタにウンカのごとく出てきた組み立て加工メーカーはなんと5万社にも及ぶが、そのほとんどのメーカーが日本の基幹部品と製造装置を買って商売している。同じ機械を使われたら差別化できないし、人手のかかる部分は労働コストの安いほうが勝つ。気が付いたときには、日本のメーカーは最終コストで太刀打ちできなくなってしまっていた。日本がこうしたメーカが力をつけるのを全面的に支援した、と言い換えてもいい。