どういうわけか私は、受験時代に読んだ数多くの文学作品のなかで芭蕉の作品だけは、その紀行文や俳句のほとんどを覚えている。その後エンジニアとしてずっと文学とは縁のない生活をしてはいても、芭蕉の想い出だけは鮮烈である。

なぜか?それは彼の作品が世の中にありふれた事柄の中から、内面的思索を通してみたときの、ふとした(心による)発見、を記述しているからではないかと思う。冒頭に掲げた作品も、「夕べ」や「すみれ草」というなんでもないものを「よく見れば」とふと気がついてみたり、「何やらゆかし」となつかしがってみる発見が新鮮な感覚で詠まれている。

別な表現をすれば、芭蕉は文学というよりも、心の窓を通じて自然の観察をしている、と言ってもよい。この観察眼が、自然科学をやってきた人間にはたまらなくうれしいのである。近頃の文学はありそうもない虚構や好きだ嫌いだのの感情が溢れ、「観察」というものが退化していると思う。そういう点では、むしろコナン・ドイルの探偵物のほうが、同じ虚構でも森羅万象に対する観察は鋭い。