上甲晃志ネットワーク青年塾代表

塾生の選挙当選第一号は小野晋也だが、4年後、野田佳彦が千葉県議に当選した。2期目の92年、前年に熊本県知事を退任した細川護煕(後に首相)が日本新党を結成した。野田は国政選挙に出る決意を固める。上甲晃志が舞台裏を回顧した。

「野田さんや山田宏さん(現日本創新党党首。前東京都杉並区長。元衆議院議員)、中田宏さん(前横浜市長。元衆議院議員)らと政経塾新党をつくる動きを始めた。次の参院選の候補擁立の準備をしていたとき、細川さんが『会いたい』と言ってきた。以前に熊本県で研修をやったりしてご縁があった。新党立ち上げと言うから、一緒にやるかどうか、野田さんや山田さんと話し合った。政経塾から国会議員を生み出すために勝負を賭けた」

山田宏日本創新党党首

松下政経塾2期生の山田宏が続ける。

「新党が2つあってもということで、細川さんのもとに集まることにした。それから前原誠司さん(現民主党政調会長)らに声をかけた。これが野田さんと細川さんの最初だったと思う」

新党構想で最初に浮上したのは松下新党だった。江口克彦が解説する。

「政経塾設立の2年後の82年頃、幸之助さんが『人材養成には15年くらいかかる。21世紀初頭の国家の危機に間に合わんかもしれんから政党を』と言い出した。私は綱領や党則の準備を始めた。これには塾生は関係していない」

江口克彦参議院議員

幸之助は89年4月に94歳で永眠する。3年後に日本新党が誕生した。同じ松下政経塾一期生で野田と一緒に結党に馳せ参じた横尾俊彦(現佐賀県多久市長)は、野田にとって日本新党参画は大きな意味があったと見ている。

横尾俊彦多久市長

「一緒に全国遊説プランをつくったりしたけど、オールジャパンを考えた大きな仕事を限られた人数でやった。細川さんは地方分権、行政改革、規制緩和などで官庁の論理だけでいいのかという問題提起にこだわっていたが、県議だった野田さんは大いに吸収したと思う」

日本新党は93年総選挙で35議席を獲得する。野田、伊藤達也(後に金融担当相)、樽床伸二(現民主党幹事長代行)、中田、長浜博行(現官房副長官)、前原、山田の7人が政経塾出身だった。