国内経済がみるみる凍りついていった不況の下、クライアント数“ゼロ”からのスタートを余儀なくされた田崎さんはまず何を考え、何をどうしたのか。

「もともと、文句は言うがポジティブに考えるほう。好きなようにやれ、と言われたのだと思うことにした。以前から『日本の企業にもブランド力が必要』という海外代理店の主張を聞いていたから、欧米志向のコンサルタント的な営業をやりたくて、今回はチャンスだと思った」

同僚は、他セクションの知己を拝み倒して巡回先を紹介してもらっていたが、田崎さんは辛抱強く新規の掘り起こしを続けた。暑い日も寒い日も、朝から晩まで下町の町工場をいくつも回った。新婚間もなかったが、土・日も自宅に戻らぬ日々が続いた。相手との飲み食いも含め、一から十まで自腹で済ますのは、やはりきつかった。

「でも、面白い特許やノウハウを持っている工場がたくさんあったし、お金がなくても熱心に耳を傾けてくれる人がいた。お金を持っていて調子のいいことを言う人より、お金はなくとも『相談に乗ってほしい』と言ってくる人に情熱を傾けました」

1年経って、ある1件が形になったのを契機に業績が目に見えて上がった。4つ5つと相談が舞い込み、5戦4勝ペース。バックアップの輪も広がった。田崎さんに目をかけてくれていた他部署の人がタクシーチケットを回してくれたり、部長が兼任部署のものとして領収書を内々に処理してくれた。

配属されて4年目、大口を扱う他セクションと遜色ない水準に数字を高めたところで異動。

「抱えたお客様を異動先に持ち出す格好となって、新規開拓部は解散となりました」

年上の同僚2人は、異動後数カ月で会社を去った。1人はチーマー風の装いと「やってられねーよ」の口癖が抜けず、もう1人は勉強好きだったが、酒とストレスで体を壊した。

役員を見返してやったという気持ちはある、という。

「最近、定年退職を目前にした例の役員と偶然、本社のエレベーターで鉢合わせしたんです。『君には期待してたんだ』と話しかけてきた。ウソつけ! 完全にシカトしてやりましたよ」

※すべて雑誌掲載当時

(作田祥一=撮影)