なぜ出奔し寺にこもったのか

復興に着手して6年、改革は一向に進まなかった。小田原藩から派遣された役人が、公然と尊徳にたてつく。反対派の村人を煽動する。あげく、大久保に讒訴(ざんそ)した。大久保は聞き流した。さすがに尊徳を引き立てた殿さまである。しかし、尊徳はそれだけに一層、苦悩した。

ここで彼の経歴中、最大の謎とされる事件が起こる。突然の失踪である。村人や役人たちは、狼狽した。お咎めを恐れたのである。

尊徳は意外な所にいた。成田山新勝寺(しんしょうじ)である。37、21日間の断食を行っていた。不動心を養うため、成田山の不動に祈願した、と尊徳は語っているが、真意は不明である。

満願の日、尊徳はひと椀の粥(かゆ)をすすると、すぐさま、二十里の道のりを歩いて桜町に帰った。21日間も断食をした人が、である。

村人たちは、この人はただ者でない、と認識を改めた。この時代のことだから、神の生まれ変り、と受け取ったとしても不思議はない。以後、尊徳の言うことなすことすべてを信じ、刃向う者はいなくなった。復興は着々と進み、約束の十カ年を迎えた時、426俵の貯えができた。計画は成功した。

桜町再建の鍵は、成田山祈願にある。ここが、分れ目だった。果して、神仏の御加護であるか。私は尊徳の自作自演説を採る。断食も正直に期間をこなしたかどうか。これは尊徳の人心収攬(しゅうらん)術の一つでなかったろうか。

人の信頼を得るためには、また事業を完遂(かんすい)するためには、多少トリッキーな手段もやむをえないだろう。ただし上手に、効果的に用いる工夫がなくてはならない。これが、むずかしい。

桜町再興一件は、評判になった。尊徳はあちこちから復興を依頼される。大久保が大名仲間に吹聴したからである。

尊徳の事業の一つ一つに、興味深い逸話があり、とても語りきれない。彼の生涯と業績については、娘婿であり高弟の富田高慶(とみたたかよし)が書きあげた『報徳記』全8巻が詳しい。富田は師の歿後すぐにこれを書いた。そして二十余年、誰にも見せずにいた。尊徳が名代として富田を派遣し復興した相馬中村領の藩主が、原稿の存在を知り、読ませてほしいと願った。一読感激した相馬氏が写本を作り、明治天皇に一本を献じた。天皇は宮内省に印刷させ、県知事に配布させた。明治23年、大日本農会が版権を譲りうけ、一般の人向けに刊行、二宮尊徳の名がいっきょに広まった。

内村鑑三が『代表的日本人』で、外国人に尊徳を顕彰した。

※すべて雑誌掲載当時

(撮影=尾崎三朗 写真=PANA)