マキアヴェリは「残酷さを立派に使え」とも説いています。次のような一節があります。

「残酷さがりっぱに使われた(中略)というのは、自分の立場を守る必要上、残酷さをいっきょに用いて、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換するばあいをいう。一方、へたに使われたとは、最初に残酷さを小出しにして、時がたつにつれて、やめるどころかますます激しく行使するばあいをさす。第一の方式を尊重していく者は(中略)神と民衆の助けが得られ、国の保持に適切な対策を講じることができる。だが第二のばあいは、国の維持はできなくなろう」(『君主論』)

中途半端な優しさがかえって混乱をまねき、結局は多くの人に迷惑をかけてしまったという事例は世に少なくありません。「残酷さ」を小出しにせず、一挙に膿出ししてしまうことが大事なのです。

たとえば、決断力の乏しい社長は資金繰りが苦しくなると取引先との融通手形でしのごうとします。しかし、深みにはまれば両社ともに倒産です。傷が浅いうちに会社を整理しておけば、周囲に迷惑をかけることはなかったかもしれません。なのに、その決断ができないのです。

この例はいわば撤退戦ですが、局地での負け戦が続き、追い詰められていくと、人は希望的観測にすがるようになります。第二次世界大戦末期の日本指導部は、ソ連のスターリン書記長が米英などとの仲介をしてくれるという、ありえない事態に本気で期待をかけていました。

国際社会において、他国が道義心にもとづいて動くことはありません。一般社会でも基本は同じです。日露戦争のときに米国のセオドア・ルーズベルト大統領が仲介に立ったのは、日露のどちらかが大勝して戦後に強大化することを恐れたからです。

「弱体な国家がもついちばん悪い傾向は、決断力に乏しいということだ」(『政略論』)

そう、リーダーにとって最も必要なものは「決断力」なのです。マキアヴェリは繰り返し説いています。

もちろん組織運営には順風が吹くだけではありません。後ろ向きの決断を迫られるときもあれば、勝ち目が薄い戦いに打って出なくてはならないケースも出てきます。

「ともかく、どこの国もいつも安全策ばかりとっていられるなどと思ってはいけない。いやむしろ、つねに危ない策でも選ばなくてはならないと、考えてほしい。物事の定めとして、一つの苦難を避ければ、あとはもうなんの苦難にも遭わずにすむなどと、とてもそうはいかない」(『君主論』)

となると「面倒くさいことは嫌だ」などといっているような人にリーダーが務まるはずはありません。危険を冒すことができる「ガッツのある」人材が必要なのは、人の世にそういう真理があるからなのです。

※すべて雑誌掲載当時

(構成=面澤淳市 撮影=芳地博之 写真=Hulton Archive/Getty Images)