商取引関係にとって信頼が貴重な資産となる。商人だけではない。地場産業でも、生産者の間で高い信頼関係をもとにした取引関係がつくりだされてきた。地域には、それぞれの書かれざるルールがある。そのルールが遵守されてきたのは、地域社会がその遵守を強制するだけの強制力を持っているからである。東アジアだけではない。イタリアでも同じだ。イタリアの地場産業でも、「お互いの領分は侵すな」という地域の不文律が守られていたからイノベーションが促された。こうなったのも、地域に信頼担保集団が存在したからである。日本でも、この信頼担保集団がしっかりしている地場産業は存続できている。

信頼担保集団による信頼担保という方法は全能ではない。信頼担保集団がうまく機能しなくなる可能性があるからだ。

実際に、近代社会になるとともに、晋商人は時代の波に乗り遅れていって、浙江商人や上海商人が台頭してきた。日本でも、近江商人は相対的地位を落としていった。近代社会になって、社会の流動性が高まるとともに、地域社会を信頼担保集団とする方法では信頼を担保できなくなってきたからだろう。明文化された契約書がとり交わされ、その遵守を国家の法体系と司法制度によって担保するという方法がとられるようになってきたからである。

しかし、近代社会だからといってすべてが明文化されているわけではない。マックス・ウェーバーは、アメリカでの商取引で信頼担保集団となっているのは、多様に分派した新教の教派集団だという。セールスマンは、自己紹介にあたって、どの教派の教会に所属しているかを語るというエピソードをウェーバーは紹介している。近代社会でも、信頼担保集団に依存した信頼の形成や維持が必要になる取引が存在するのである。このような自己紹介が必要になる理由を知るには、初めて出会ったセールスマンが、相手の信頼を得るのにどのような方法があるかを考えてみればよい。私が悪事をはたらけば裁判すればよいですよというのでは信頼は得られない。

証券取引をするファンドマネジャーの間では、最初に情報を提供してくれたアナリストが所属する証券会社に注文を出すという不文律が守られているそうだ。このようなルールが守られているから証券会社は優秀なアナリストの発掘・育成に安心して投資ができるのである。しかし、このような不文律は契約として明文化することは難しい。個々の取引を司法システムで監視することはできないからである。それよりもむしろ、仲間の相互監視と同業のコミュニティーからの排除という方法が効果的だからである。あるいはそれしか方法がないというべきかもしれない。日本の自動車部品の取引に関しても、このような信頼を基盤にした取引が行われている。取引関係そのものが信頼担保集団になっているからである。