「いざ筆を手に執っても、筆先が震えたり、なかなか集中することができません。それでもゆっくり般若心経の262文字を書いていくと心も落ち着き、周囲のことが気にならなくなります。最後の『菩提薩婆訶般若心経』を書き終わった瞬間にまだ書けると感じたとき、いかに自分が集中していたかわかりました」

そう語る藤森さんの横顔を頼もしそうに見ていたものづくり塾の責任者である部長の宮澤健一さんは、「写経の狙いは集中力と持続力のアップに加え、何かトラブルがあっても気持ちを切り替えられる胆力を鍛えることにあります」と話す。

そして9月、藤森さんは技能五輪国際大会に出場した。ポリメカニクスの競技は4日間にわたって行われ、旋盤、フライス盤などの工作機械を使って金属部品を削り出し、最後はヤスリで1000分の1ミリメートル単位の精度に仕上げて組み付けていく。そこまでは国内大会の精密機器組み立て競技と同じなのだが、さらに電気配線や空気圧配管を施して電気的に動くようにする。そのためには制御機器のプログラムも組まなくてはならない。そうした未知の分野の技能を藤森さんは、短期間のうちに集中して一気にマスターしていったのだ。

しかし、国際大会で出された課題は前回よりも部品点数が大幅に増えて20個になっていた。競技委員の間から「とても規定の時間内に作り終えることができない」と声があがるほどハイレベルなものだった。結局、審議を経て部品点数は15個に減らされたものの、出場した全選手11人の誰も規定時間内に可動できるようになるまでには至らなかった。

藤森さんは、部品の削り出しやプログラミングなどの時間配分を見誤り、部品の組み付けを始めたところでタイムアップになった。結果は7位。訓練時間の不足でペース配分を体に染み込ませ切れなかったことが悔やまれる。

しかし、藤森さんのものづくりに対する意欲が衰えてしまったわけではない。「将来はFAロボットの現場で身につけた技能を活かしたい」と目を輝かす。不本意な結果に悔しい思いはある。でも、それはあくまでも国際大会という一時の結果でしかない。藤森さんのものづくり人生は緒についたばかりなのだ。

あらゆる現象は実体がなく、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事にすぎない。そう思えば欲望に執着することもなく、こだわりを捨て前に進むことができる。まっすぐに前を向いて歩もうとする藤森さんを見ていると、そうした般若心経の教えを写経を通して自然と学んでいったように思えてくる。

※すべて雑誌掲載当時

(坂井 和=撮影)