会長就任を受諾し単身NHKに乗り込んだ福地氏は、初出勤の朝、固唾を呑んで見守る幹部職員らに対し、2冊の本を手に語りかけたという。

1冊は1998年に書かれた『アンダーセン発展の秘密』、もう1冊は2003年刊の『名門アーサーアンダーセン消滅の軌跡』です。その間、わずかに5年。世界の5大監査法人の一つに数えられたアーサー・アンダーセンは、コンプライアンス違反が発覚したことで短期間のうちに消滅してしまいました。発端は、不祥事を告発するたった一通の社内メールだったといいます。

私はそういった事情を説明してから、職員たちに述べました。

「世界に冠たるアーサー・アンダーセンですら、コンプライアンスに反したことで地上から消えてしまった。NHKという大きな組織にも、不祥事によって同じことが起きるかもしれない。いかにコンプライアンスが大事かわかってほしい」

その場にいた職員は、みな深くうなずいていました。

このときの経験もあって、やはりトップは現場に出なければいけないと実感しました。目指したのは「顔の見える会長」「声の聞こえる会長」です。

NHKには全国に53の放送局がありますが、就任以来、時間をみつけては放送局を訪ねて職員との対話を重ねてきました。私が1時間しゃべって、その後みなさんと30分やりとりをするという形です。おかげさまで就任から1年半たった09年7月には、国内の全放送局と、海外の4つの総局を訪問することができました。

NHKは民間企業とは違って増資を行うこともできませんから、今後しばらくは予算規模の中で質的にどう変化していくかが問われます。かつてなら人口・世帯数が増えていましたし、受信料の値上げも可能で、量的拡大の余地がありました。ところがいま世帯数は頭打ちで、6500億円の予算規模が急に7000億円に増えることは考えられません。

その一方、放送のフルデジタル化などに備えて投資額はかさみます。番組の質を確保するため、報道・制作の予算は削らないと宣言しましたが、そうすると他の部門から経営資源を移動しなければなりません。資源の減るところのモラールをどう維持するか。これはきわめて難しい問題です。しかし必ずやり遂げなくてはならないことです。

だからこそ、私は現場をすべて回ろうと考えたのです。

たとえば各地の営業部門は、繰り返される不祥事を受けて視聴者の方からお叱りを受ける立場にあります。だから彼らには「たいへんだろう」とねぎらうのですが、逆に「会長、頑張ってください」と激励されることもしばしばでした。実はここ数年、NHKの営業部門は逆風の中で受信料の収納率と収納額の両方を増やし続けています。

私自身も彼らから力をもらいました。NHKの職員一人ひとりは、もともと素晴らしい素質の持ち主なのだ。それが相次ぐ不祥事によって、伏し目がちになっていただけなんだと実感することができたのです。

※すべて雑誌掲載当時

(面澤淳市=構成 的野弘路=撮影)