「そこそこの男」のリアリズム

4人の中で、際立って饒舌なのは左馬頭(さまのかみ)でした。彼は、

「上流の女は、周囲が入念にフォローするので当人に欠陥があっても隠れてしまうし、たとえ完璧であったとしても当然という気がしてしまう。下流の女は、いくら何でも付き合う気がしない。中流の女の中から掘り出しものを見つけるのが恋の醍醐味だ」

と断言します。さらに

「恋に夢を抱いている若い女は、相手をするのが疲れる。風流すぎる女も迷惑だ。世話女房タイプも、家事に夢中になってこちらの話を聞いてくれなかったりする。身分も容姿もほどほどでいいから、性質に偏ったところのない、素直な女がいちばんだ」

と主張し、

「男との仲が行き詰まったとき、心に迫る手紙をのこして身を隠したり、出家して尼になったりする女というのは、物語に出てくるのならいいが、実際に付き合うのは大変だ。少しぐらい男に放っておかれてもじたばたせず、ここぞというときにだけ控えめに意志表示をするような女が結局は理想的だ」

とダメを押します。

左馬頭がいっていることは、

「夢を追いかけず、ほどほどのところで満足するのが得策」

という「リアリズムの思想」です。

ちなみに「左馬頭」というのも役職名で、宮中の馬を管理する役所の長官を指します。中将と同様、左馬頭も武官で、格としては中将にそれほど劣らないポストなのですが、超一流のエリートが就く役職ではありません。光源氏や頭中将が将来、大臣を狙えるコースを歩んでいるのに対し、左馬頭は、出世してもおそらく参議か中納言までです。

当時の貴族社会の頂点は、帝の前で国策を決定する会議に出る役職でした。その「頂点組」の中の、いちばん下が参議、その次が中納言です。「上の上」を目指し得るのが光源氏や頭中将、左馬頭は「上の下」が限界なのでした。

そして左馬頭は、恋愛経験においても「上の下」までの人だったようです。彼は、自分の「恋愛リアリズムの思想」を語ったあと、

「あまり美しくはなかったけれど、自分を一途に愛してくれていた女」

との夫婦生活について語ります。そして、その女と別れたあとに付き合った「嗜(たしなみ)み深く魅力的だったが、浮気者の女」の話をして、一途な女の方をもっと大事にすべきだったと述べるのです。

左馬頭は、「有名な色好み」と書かれていますから、恋の場数はたくさん踏んでいたにちがいありません。それなのに彼は、「魅力的で身分も高い女」から「一途に愛される」経験――「上の上」の恋愛経験――を、一度ももてなかったらしいのです。

二重の意味で「上の下」が限界、というこの身の上が、おそらく左馬頭の中に、屈折したプライドを育んだのだと考えられます。

俺は「上」の世界も垣間見られる「特別な事情通」だから、けっしてしてそこいらの馬鹿どものようにナイーブに夢を追わない――そんな風に考えることで左馬頭は、自分の誇りをもちこたえていたのではないでしょうか。

プロにはなれたけれど、主軸にはなれかなったスポーツ選手、そこそこ有名ではあるが、バラエティ番組にばかり出ているタレント、たくさん本を出してはいても、ハウツウ的な実用書ばかりという作家――そういう「左馬頭な人々」は、現代日本にも大勢生きています。彼らの多くは、左馬頭のように「リアリズムの視線」で恋愛や人生を見ているようです。