創業者の教え「真剣に叱られる」

<strong>大坪文雄</strong> おおつぼ・ふみお●1945年、大阪府生まれ。関西大学大学院工学研究科機械工学専攻修了後、松下電器産業(現パナソニック)に入社。98年6月取締役兼AVC社副社長、2000年6月常務取締役、03年1月パナソニックAVCネットワークス社社長、同年6月専務取締役。06年6月より現職。
パナソニック社長 大坪文雄 おおつぼ・ふみお●1945年、大阪府生まれ。関西大学大学院工学研究科機械工学専攻修了後、松下電器産業(現パナソニック)に入社。98年6月取締役兼AVC社副社長、2000年6月常務取締役、03年1月パナソニックAVCネットワークス社社長、同年6月専務取締役。06年6月より現職。

1988年夏、大阪府門真市の本社地区にあったオーディオ工場で、古くなったプレスの機械やプラスチック成型機を売却しようとした。オーディオ機器の生産は仙台工場に集約されることになり、仕事を失う550人を束ね、ビデオ部門からもらった仕事で食い扶持を得ようと準備を進めていた。そのなかで、オーディオ工場の責任者に機械の処分を頼まれ、「処分して場所が空けば、そこに自分たちが使う機械が置ける」と考え、引き受けていた。

旧盆の連休が始まる前夜。機械の撤去や運搬の手配を終え、工場の責任者の決裁もとり、ひと息ついたときだ。リストラ対策の長とは言え、自分も「開発工場長」という肩書で大部隊を率いる身。一応、担当役員の了解も得ておこう、と考えた。

役員の部屋へ行き、報告する。役員も、経緯は知っていたはず、すぐに了解が貰える、と思っていた。だが、気が遠くなるほど激怒された。

「モノづくりにとって、機械設備は一番大事なものだ。それを簡単に手放すとは、何事だ。古くなっても、まだ使って稼げるかもしれないではないか」と、何度も叱られる。やっと解放されたのは午後11時。雷鳴が轟いていたことを、忘れない。

42歳にもなって、驚くほど叱られた。でも、創業者の松下幸之助さんは「真剣に叱られる」ことの大切さを説いた。誰でも、叱られるのは面白くない。自分に非があったとしても、やはり嫌だ。叱るほうも、気持ちがいいはずはない。でも、そんな情がからんで、物事をうやむやにしてはいけない。人間、それでは知らず知らずのうちに考えが甘くなり、もろさが生じてしまう。

上司の役員も、別に怒りたくて怒ったのではない。「話はついているのだろう、古い設備は邪魔だ、自分たちには関係ない機械、早く処分してしまおう」――いつのまにか段取り優先になっていた部下に、反省を促したかったのだ。数日後、役員は引き出しからビデオ機器用の部品を取り出し、「これは、いま外注でつくっている。お前たちの機械で、もっと安くつくれないか」と言った。人も設備も、経営資源はとことん大事にして、付加価値を追求する。モノづくりの要諦だ。機械の処分も、そんな視点から考えるべきだった。貴重な学習体験となる。

ドル安・円高を誘導した「プラザ合意」の後、日本の電機産業は急速に競争力を失った。アジア勢に追い上げられたオーディオ部門は、とくに苦境にいた。松下電器産業(現パナソニック)は87年7月、絶頂期にあったビデオ部門と合体させ、工場の再編や人員削減を始める。仙台工場への集約と門真の余剰人員対策は、その構造改革の一環だった。

仕事がなくなる人たちを抱え、少しでも赤字を減らすため、社内中から「音」に関する部品や機器の注文を集めに走る。だが、叱られた役員に指摘された。「外部より2割安くしないと、注文は貰えない。でも、松下の社員の給与は、外注先よりかなり高い。2割安くできるのか?」

どこでも「そんなに安くできるはずはない」と笑われた。でも、頭を下げ続け、ビデオ用の電子部品を実装する作業を「受注」する。それをつくるために、最先端設備を導入した。外注では価格に相手の利益分を想定するが、自分たちには不要。材料の使い方や製品の歩留まりも、外注ほどのゆとりは要らない。すぐ隣のビデオ事業部に渡すだけだから、倉庫代も輸送費もゼロ。さらにコストを圧縮するために、全社で初の3班3交代制のシフト勤務も採った。

当時、社内のルールで、夜間勤務には厳しい制限があった。生産ラインでは監視作業を中心にして、生産に直接関与してはいけない。部品を補給する作業はいい。一定の時間止め、ラインをメンテナンスするのもいい。でも、監視作業が全体の80以上でなければいけない。そのルールを前提に、24時間フル操業の体制を組む。タブー視されていた女性のシフト入りもやった。ここでもぼろくそに言われた。でも、狙いは当たり、半年もたたないうちに黒字を出す。この間、売却するつもりだった機械類も、一端で貢献した。

本当にルールを守っているのか、人事部門などがチェックにきた。実は、すべての条件までは満たしていない。でも、一生懸命やっているのをみて「まあ、いいじゃないか」と思ってくれたらしい。指弾は出なかった。中国の『烈士』にある「愚公、山を移す」ではないが、たゆまぬ努力をしていれば、誰かがみていてくれて、結局は目標が実現する。自分たちも、多くの人に見守られていた。そう感じ取り、感激する。